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最終更新日 ; Tuesday, 07-Dec-2004 00:00:00 JST
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推理小説から哲学書まで、とにかく乱読の私ですけど、ちょっと今年から「読書日記」をつけてみようと思い立ちました.
毎晩、ベッドの中で、目をショボショボさせながら、それでも本を読まないと寝る気がしないという悪癖が、何十年も続いています.
たくさん読む日もあれば、ほんの数ページでダウンしてしまう日もあって、1冊読み終わるのにかなりの日数を要するのですが、まぁ、心に残る本の感想を少しずつ、書き残しておこうかな、と・・・
でも、まぁ、これは一方的な私の感想ですから、どんどん本質から、はずれて行ってしまいそうですけど.(^^ゞ


2003〜2004



  • 向田邦子 著 「阿修羅のごとく」 (文春文庫)
  • カズオ・イシグロ 著 「日の名残り」 (ハヤカワepi文庫)
  • 映画 「半落ち」 
  • 陳舜臣 著 「曹操」 (中央公論新社)
  • 浅田次郎 著 「輪違屋糸里」 (文芸春秋)
  • 白洲正子 著 「西行」 (新潮社)
  • プリスター・フキン 著 「コーカサスの金色の雲」 (群像社)
  • グレアム・グリーン 著 「おとなしいアメリカ人」 (ハヤカワepi文庫)
  • 宮尾登美子 著 「きのね」 (朝日新聞社)





  •  チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷 2003/01/04


    塩野七生の本は、割と好きです.小説と言うには感情描写がなく、歴史・伝記と言うのも、ちょっと当てはまらないかもしれないし、不思議なたたずまいを見せながら、淡々と事実を簡潔に書き連ねていくそのスタイル.その中からくっきりと時代の動きがドラマティックに浮かび上がってきます.

    時代小説って、大好きなの.これも、イタリアを舞台にした時代小説.同じく日本人が描いたイタリアの時代小説として、辻邦生の「春の戴冠」があるけれど、辻邦生のは完全に小説・・・これも熱中して読んだっけ・・・

    で、主人公は勿論、チェーザレ・ボルジア.“悪名高きボルジア家”あるいは“毒薬づかいのボルジア”と言う怪しげな伝説と常に対で語られる男.

    法王アレッサンドロ6世の息子として、若くして枢機卿の地位を得ながら、それを投げ捨てて剣を取り、教会領を再征服すると言う名目でロマーニャ地方を征服し、イタリア統一を志すがアレッサンドロ6世の死去と共に、その野望は潰える・・・
    レオナルド・ダ・ヴィンチを起用し、都市計画や武具の改良を試みさせたり、また、当時フィレンツェの外交官だったマキャヴェッリをして、その著作「君主論」の中で見習うべき人物と評させた男.

    淡々と書き連ねられる歴史の流れの中で、チェーザレが、魅力的に立ち上がってくる.
    何か、織田信長に共通する、常人の目には見えないはるか彼方を見つめる視線を感じる.確かに「優雅なる冷酷」だ.
    瑣末な感情に動かされる事なく、その時代の価値観や正義とされている事柄から、全く自由に開放されて存在した男.

    反乱軍が蜂起し、窮地に立たされたときに、彼はマキャヴェッリに語る.
    「あらゆることに気を配りながら、私は自分の時が来るのを待っている.」
    政治あるいは戦いにおける、感情を排した高度な技術者の視線だ・・・ロマンティシズムとは程遠い.

    何だか、ゾクゾクしちゃうのね〜 こういう台詞・・・

    で、読み終わって、今、読み始めているのは、浅田次郎の「壬生義士伝」
    あはははは、本当に乱読でしょう?? 上下2巻だから、ちょいと読むのに時間がかかりそうです.また、読み終わったらね〜





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     浅田次郎 著「壬生義士伝」 (文春文庫) 2003/01/12


    最近、TVでも、また近々映画も上映される予定の作品の原作です.
    この本を手にしたきっかけは、先日見た映画「たそがれ清兵衛」での予告編をチラッとみたからなのです.
    で、読み始めたら、止まらなくなってしまいました.涙、涙でした、ホント・・・

    主人公は、南部藩の二駄二人扶持の足軽でありながら、学問は足軽の身分ながら藩校の助教を勤めるほどの英才、剣は北辰一刀流の免許皆伝の腕前を持つ吉村貫一郎.
    いくら英才であろうとも、剣の腕前が優れていようとも、がんじがらめの身分制度に阻まれて、食うや食わずの暮らし振り.かてて加えての打ち続く飢饉に見舞われ、このままでは飢え死にあるのみと、女房子供を食わさんがために脱藩して新撰組に入る.そして、守銭奴とあざけられつつも、人を切りつつ得た金を、女房子供に送りつづける.鳥羽伏見の戦いに敗れた後に、主家の大阪の蔵屋敷で切腹して果てる、と言うのがあらすじなんですけれど.

    話は、吉村貫一郎が、瀕死の重症を負いながら、南部藩の蔵屋敷にやってくるところから始まります.
    そこには、彼の竹馬の友というべき蔵屋敷差配、大野次郎右衛門がいて・・・大野次郎右衛門も明らかにもう一方の主人公です.
    大野は吉村に切腹を言い渡す.

    一転して、話は吉村自身の独白や、彼を知るさまざまな人たちの独白で綴られて行きます.
    吉村に興を持った誰か(ジャーナリストかしら?)が、吉村ゆかりの人々を訪ね歩いては聞き取りを続けていると言った形式です.
    吉村の独白は南部弁.ほかの人たちは、江戸弁だったり大阪言葉だったり・・・その中で次第に吉村の人となりが明らかになってくる.そのあたりの構成はまことに人をひきつける巧さです.

    まぁ、くどくどとあらすじを書いたところでしょうがないのだけれど、がんじがらめの世の中で己を犠牲にし、己が血にまみれつつ、次代の子らが“巌を砕きて万朶の花を咲かせる”ことを夢見た、その強さ、優しさ…

    しかし、彼の長男嘉一郎は、
    「わしは南部の誉れのために死にてえと思いあんす.んでなければ、飢饉のたびにおのれらが飢えて死んでも年貢ば納めた百姓領民にもうしわけながんす.南部の百姓からいただいた体は、南部の百姓にお返し申す.」と言い残し、五稜郭の戦で果てる.

    最後に、大野が「こいねがわくは、この少年、ご膝下にお留め賜りご配慮ご養育のほど、平伏合掌致し候て、衷心よりお願い上げ奉り候.義士の血脈いずれの日か巌を砕きて万朶の開花いたし候御事、夢幻のうちに慶賀致し奉り候」と、戦犯として処刑される直前に書いた書簡と共に越後の豪農に預けられた吉村の次男で、父と同じ名前を持つ貫一郎は、長じて農学者となり、「天然の害に立ち向かい、それを超克する品種」の米、吉村早生を作り出したと言う.

    生きる、と言うことを考えるとき、私には自分が生きることしか念頭にないのだけれど、己を次代のための肥やしにしようと思い定めるその生き方のすさまじさ・・・ちょっと圧倒されました.

    夕べも、友人と、引退すること、次代を育てる事と言う風な話をちょっと交わしたんだけれど、己に固執しすぎるみっともなさの蔓延している時代にあって、ここまではとても出来ないことにもせよ、自分の欲に固執し留まっていては教育って成り立たないんだな〜と・・・世の中、前へは進まないよね、どこかで己を、己の欲を捨てなくちゃいけないこともあるよね・・・と.それがなくっちゃこの閉塞状態は永遠に続いちゃうんじゃないだろうか、と.
    誰がなんていったって、教育と農業は100年先の国の基なんだって、私は密かに思っているんです.(^^ゞ

    話は変わりますけど、私の母の実家の先祖は南部藩の出なのだそうです.
    私が18歳のときに父が亡くなったのですが、母は父の葬式の1週間後に何も言わず毅然として私を大学に出してくれました.やっぱり、これも南部魂ってヤツかな? と、これも密かにわが身に引き寄せて思った次第.
    私の母と言う人も、何も言わなかったけれど、多分私のために言い知れぬほど多くの犠牲を払ったのでしょうね・・・巌を砕いて花咲くには至りませんでしたけど〜 
    へへ、今になってみれば情けなくも申し訳のないことでございますぅ〜(^^ゞ

    ま、それにしても、この本、お暇の折に是非ご一読をお勧めいたします! 





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     エド・マクベイン著 ロマンス・87分署シリーズ (ハヤカワ文庫) 2003/01/22


    エド・マクベインの87分署シリーズの最新刊です.このシリーズは、もうすでに46冊目.
    若い頃から、出るたびに買っては読んでるシリーズです.
    87分署シリーズって言うのは、アイソラという架空の都市(ニューヨークを模しているらしい)の警察の分署を舞台にした、警察小説・推理小説・ファミリーもの・恋愛小説でもあるかもしれない・・・いろいろ盛り沢山.アイソラそのものが主人公かも〜
    まぁ、軽い読み物ですけど、テンポのいい語り口が小気味良いの.
    それに、46冊もあるから、20代頃から読みつづけていると私の中にも何だか登場人物にある種の仲間意識が出ちゃったりしてるのね.

    87分署の二級刑事たち.
    スティーヴ・キャレラ:ちょっと東洋人を思わせる風貌のイタリア系アメリカ人.最愛の奥さんのテディは、聾唖者なの.子供は男の子と女の子の双子.
    マイヤー・マイヤー:ユダヤ人で、冗談好きの父親に二重名前をつけられて育った彼は、子供時代からその名前のせいでいじめられ続け、おかげで忍耐強い性格を形成するけど、その代わりに見事に禿げてしまった・・・
    バート・クリング:金髪のハンサムな青年.どうも女性に恵まれないのね.はじめの恋人は事件に巻き込まれて殺されちゃうし、売れっ子モデルと無事結婚したかと思うと早々バツイチになっちゃう.
    他にも個性的な刑事や警官たちが登場するの.

    要するに、87分署の管轄の中で、事件が起こり、その解決に奔走しながらも私生活で悩んだり苦しんだりしている刑事たちの群像が描かれているの.
    カウチポテトにはもってこいの小説です.

    このあらすじは、「ロマンス」と言うクソ面白くもない舞台劇の主役女優が「ロマンス」の筋書きと全く同じように、電話で刺し殺すと言う脅迫を受けていると87分署に訴えて出るところから始まります.
    で、直後に、楽屋を出た暗い路地で何者かに刺されてしまう.「ロマンス」の筋書きとの違いは、殺されずに軽傷だったって事.
    だけど、その女優は退院した後、自分のアパートでメッタ刺しにされて今度は本当に殺されてしまう.
    おかげで、面白くもない芝居の「ロマンス」は、マスコミの取り上げるところとなって、どうもかなりのヒット作品になりそうな気配・・・
    主役が殺されて、誰が得をするのか?? キャレラとクリングが、その事件を担当して捜査が始まる.それと同時に進行するのがクリングの新しい恋ってわけ.今度の相手は市警医師のシャーリンという魅力的な黒人女性.さて、その結末は??

    ストーリーを追いかけて、一挙に読みきる爽快さがあります〜〜
    多分これからも、彼の作品が出るたびに買いこんではワクワク読むんだろうな・・・





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    車谷長吉 著 「鹽壺(しおつぼ)の匙」(新潮文庫) 2003/02/28


    友人が、会話の途中で唐突にこの本の話をはじめた.全く唐突に、である.だから私はこの本を友人から借りてきた.

    不思議な本である.
    「鹽壺(しおつぼ)の匙」のほかにいくつかの短編が収められていた.
    その中から、少しずつ、いくつかを取り上げてみたいと思う.


    「なんまんだあ絵」

    「なんまんだあ絵」というのは仏壇の上にかかっているご先祖様の肖像画のことである.
    「生きた人を目の前にしながら、その人の死顔を透かし視ながら描いたのではないかと思われるような」肖像画・・・
    としよりが、生きているうちに誰にも知られずにこっそりと描いてもらって、仏壇の裏にこっそり隠しておくのが風習になっているのだそうだ.誰にも知られずに自分だけで立派に執り行う死支度である.

    おみかはんという年寄りが、いよいよ決心して「なんまんだあ絵」を描いてもらいに出かけようと一張羅を着込んだその時に、あろうことかその姿を嫁に見られてしまう.
    「人生の土壇場に来てドジを踏んでしまった自分がつくづく恨めしかった.」
    決心がつくまでの間は一日伸ばしに日を重た末のこと、である.「おいそれと自分の命のけじめはつかへなんだ.」

    人の持つ、わけのわからない業(ごう)のようなものが、その一行から立ち昇ってきた.
    諦めと、諦めのつかなさの境目で揺れに揺れて日を重ねた・・・或る日、井戸につるべを落として水をくみ上げた時、その水桶の中に、井戸に長い間ヌシのように住み着いていた鮒が白い腹を浮かべていて、そのことが、おみかはんに腹を決めさせたのである.

    嫁に見られたと言う思いのやり場のなさを抱えて、夏の炎天下を、腰の曲がったおみかはんは日傘をさしてクラクラと「なんまんだあ絵」を描いてもらうために歩いてゆく.
    立ち止まって息をつくと、足元に死んだ大きな蚯蚓、そしてそれに群がる黒蟻・・・その時おみかはんは持って行き場のない怒りに駆られ、土手を、つんのめって鼻緒の切れた下駄を足に絡めながらよろよろと走り出す.

    何故か「楢山節考」を思い出した.年寄りが、自分の丈夫な歯を恥じて、石で砕くところ・・・何でだろう、急に脈絡もなくこの場面が思い出されたのは???

    やはり私も、時折、「死」に直面することがある年代になった所為なのだろう.
    そして、奇麗事ではない「死」の一部始終を眺めて暮らしたいくつかの経験の所為でもあるのかもしれないが、もしかしたら生きることの最後の目標は死ぬことではないのか、と.
    そして、それがいつどのようなかたちで訪れるのかは、決して知りようのない「業」のようなものかもしれない、と.
    否応なしに生に執着する生き物としての本能の上に、立派に死ぬという自分の生きた証の意地を重ねて土手をよろよろと走ってゆくおみかはんの姿が、まぶたに浮かんだ.

    なにやら恐ろしい小説であった.


    「鹽壺(しおつぼ)の匙」

    車谷自身によれば、これは私小説なのだそうだ.

    「私小説を鬻ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけてきた.併しにも拘らず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである.凡て生前の遺稿として書いた.書くことはまた一つの狂気である.」と、車谷は、あとがきに記している.

    このあとがきで、やっと、読みながら私の感じていた奇妙な怖さが何であるのかが垣間見えたのである.

    私小説とあるからには、概ねこれは事実に基づいて書かれたものであろう.
    貧民窟に生まれ、鍛冶屋に奉公し、鉄道が全国に伸びていく時代に枕木をとめる犬釘を作ることでなした財を元に、闇の高利貸しになった曽祖父.
    その曽祖父が、「朝から晩まで水に使って砂取り人足をしていたから子宮が冷えて二腹の子が出来る気づかいはない」と、後妻に迎えた文盲のむめばあさん.
    闇の高利貸しを手伝い、絵にある吉祥天のような顔をしながら、根に獰猛酷薄なものを隠し持った激しい祖母.
    狂人の父.
    そして、宏之叔父.
    彼は、ヴァイオリンを弾き、ドストエフスキーやニーチェを読み漁る“無意味なほどに刺激されやすい純潔の本能”を持った青年で、彼の読んでいた和辻哲郎の著作の余白に青インキで書かれた、「俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている。」という書き込みを、あとで主人公は見つけ出す.

    その宏之叔父は、二十一歳で、“あしなえ”になりながらも銭への執念を捨てきれずにタバコ屋をはじめた曽祖父の座している背後の梁に首を吊って自殺する.その自殺の少し前に、主人公は、塩とともに固まって石になった銀の匙の入った塩壺をかなづちで執拗に打ち砕いている宏之叔父の姿を垣間見る・・・


    恐らくその銀の匙は宏之にとっての自分自身.湿気を食らって凝り固まった血脈という塩に纏わりつかれ絡め取られて、ともに石に成り果てた自分自身ではなかったのか・・・
    血脈を憎むことは、自分自身を憎悪することに等しい.決して掘り出されることのない銀の匙・・・

    亡くなった宏之叔父の野辺送りの数日後に、買ったばかりの電気洗濯機で洗われた、糸の抜かれた経帷子が物干し竿に干してあるのを主人公は見つける.死者のまとった経帷子が洗濯されて干されているのを.

    と、まァ、それがあらすじなのだが、このなんとも救いようのないような物語の中には、主人公の感情描写が微塵もでてこない.
    いつも、彼と彼の周りにいる人々との間は、その内包する「悪」をまことに容赦なく描きつつもいつも何かしらの距離感に隔てられているのだ.冷ややかに見つめるというのでもない.只ひたすら距離を開けて眺めているその視線の持つ希薄感は、一体何なのだろう??
    「家の中に漂う呪いにも似た銭への執念」に押しつぶされるように自殺した叔父のことも、彼は熱くもなく冷たくもなく淡々と描写する.彼の思いは何処にも滲んでこない.

    ひょっとしたら、彼自身、あまりに感情が激しすぎるがゆえにその感情を表す言葉を持たないのではないのだろうか、と思うくらいだ・・・
    一つの家、一つの血脈の持つ何かしらの狂気.それがまた自分の内奥にも脈々と息づいているその恐怖.
    その恐怖は、自らの感情を深く封印することでしか対抗できない恐怖なのだ.そして、それが「書くことが私にはただ一つの救いであったからである.」というあとがきに結びつくのだろうか.

    否応なしに封印される感情とは、その封印を解いたとたんに、他者を、そして自らをも食らい尽くさずにはいられないほどの暗く激しく恐ろしいものなのだろうから.





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     死の骨董(青山二郎と小林秀雄) 2003/07/24


    空いた時間に立ち寄った書店で、偶然にもこの表題が目に飛び込んできて、思わず買ってしまった本である.
    小林秀雄は高校時代から大学時代にかけてよく読んだ.たまたま高校での恩師が小林秀雄狂いで、「無常といふ事」を副読本として読まされたのがそのはじめ.高校2年生の私にとっては、圧倒的な経験不足から、かなり内容的には難しく未消化のままだったが・・・

    これは、第6回三田文学新人賞を受賞した作品である.骨董をめぐっての青山二郎と小林秀雄との確執の根が一体どこにあったのかを論じ、小林秀雄が確立した「批評」の本質を鋭く突いている作品だと言えよう.

    永原孝道に拠ると、青山は骨董に、他者との関係を繋ぐ道具としての意味を見出し、小林にとって“論ずるに値する骨董とは、何よりも死者の遺した優れた形や色や質感であった.”と、そこの決定的な差異が二人の確執の原点であると断じている.
    つまり、鑑賞を生きた青山二郎、批評を生きた小林秀雄、というわけだ.

    小林にとっての骨董は、悲しい人間や不幸な人間がそれでもなんとか生きていくために、全身全霊を賭けて見、弄くらねばならない試金の石であった、と、その観点には虚を突かれた.

    確かに芸術にはそういう側面がある.小林の愛した芸術家たち、例えばアルチュール・ランボー、中原中也、源実朝、三島由紀夫、ゴッホ・・・
    夭折の作家たち・・・創作することですら自分自身を救い出せなかった芸術家たち・・・
    三島由紀夫の自決の翌年に小林は談話を発表した.
    「はやり運命といった暗い力と一緒にいたのだよ。謹んで哀悼の意を表すといふ弔電用の文句があるな。あゝいふ全く形式的な決り文句は、どこの国語にもある。何故あるかといふと、これはやはり、さういふ空虚な文句を呪文のやうに唱える人が、その人自身の言葉にならない想ひで、その内容を満たすためにあるのだ.更に言へば、それは死といふものが謎である証拠でもある.」(三島君の事)

    そして、永原は続ける.

    ここにこれ以上ないくらい率直に、小林秀雄の骨董がその裸の姿を見せている。彼の骨董もまた、その中心は空虚であった。しかし、青山二郎の空虚が、そこに生きてある具体的な他者を呼び込み、<関係>の海に出て行くためにあるとすれば、小林秀雄の空虚は、ついに謎であリ続ける死に対峙するために、ヴィジョンによって満たされなければならない。小林にとって「伝統」や「歴史」、あるいは「美」が、真に「孤独」な個人と出会うのはこういう場所なのだ。ついに謎でしかないむき出しの死に直面するための、なけなしの呪文としての「古典」=「骨董」

    非常に面白く、また、切実に読み終わった.もう一度、小林秀雄を読み直してみようか・・・
    しかし、現代、“芸術家”がスリムなアーティストに変貌し、メディアによって弄繰り回される時代、小林の言う「死に至る病」としての創作活動なんて、果たして存在可能なのだろうか??? 全ては経済の中に組み込まれて、死すらもあわただしく忘却の海に溶け込んでしまう・・・





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     山口薫詩画集 独りの時間 2003/08/11


    先日、京都に行ったときに、ふと立ち寄った 何必館・京都現代美術館で、山口薫の作品をいくつか見ました.
    普段、私はあまり抽象的な絵は見ないのですが、彼の作品に漂う、何やら本質的な悲しみの気配に、そしてその静けさに心を掴まれて・・・作品の傍らに彼の書いた詩も置かれていて、それにも興味をそそられました.

    で、帰ってきてからネットで検索して、群馬県立美術館のショップから取り寄せたのがこの本です.書店からでもよかったのですが、ここから取り寄せるのが一番早く入手できそうだったから.

    「 刻苦勉励
    そういう人でもない 私は
    今後どうなってゆくのかもわからない
    只 私は生きようにしか生きられないと思う
    その自由と勝手を与えてくれといいたくなることもある 」

    「 描くことがデッサンか
    消すことがデッサンか
    両方とも消すことの方が多かった
    それはみな 涙であったかもしれない 」

    「 涙を流して 絵を描いたっていい・・・」

    「 詩らしきものが先に生まれ
    絵が後に続くときもある 」

    それらの言葉.それらの詩らしきものは、画帳の隅に記されていたそうです.
    それらの言葉とともに彼の絵を見ると、あ、他には生きる“すべ”を持たなかった人なのだ、と・・・その“すべ”のなさがこんなにも静謐さをもって私をひきつけるのだ、と思いました.
    描くことも、書くことも、どちらも決して全てではない、目指すところではない.彼は彼自身を生きただけなのだ、と・・・このようにしか生きられなかっただけなのだ、と・・・





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     ベルンハルト・シュリンク著 「朗読者」 (新潮文庫) 2003/01/


    先日、仕事で静岡に出かけたときに書店に立ち寄り、ふと目に止まって買い込んだ本です.

    荒筋は・・・

    ミヒャエルは、15歳のときに、母親と言ってもおかしくないほどの年齢のハンナと恋に落ちる.ハンナはいつもどういうわけかミヒャエルに、「読んでよ、坊や.」と本の朗読をせがんでいた.ミヒャエルとハンナは、隠れて関係を続けていたが、ある日、突然にハンナはミヒャエルの前から姿を消してしまう.
    そのようにして別れてから数年の後にミヒャエルは大学生になり、法科に進んだ.

    ミヒャエルの指導をしていた教授はナチス時代とそれに関連する裁判を研究していたために、ゼミで“強制収容所を巡る最初の裁判”を取り上げ、学生たちに手伝わせてその裁判の成り行きを追い、評価しようと、その裁判の傍聴をさせた.

    法廷に出かけたミヒャエルは、被告人席にハンナを見出す.ハンナはかつて強制収容所の女看守をしていたのであり、ユダヤ人をアウシュビッツに送り込んだ戦争犯罪者の一人として、幾人かの女看守たちとともに告発されていたのだった.ドイツ人がドイツ人を裁いた最初の裁判である.

    その裁判を傍聴しつづけながら、ミヒャエルはある事実に思い至る.ハンナは文盲だったのだ・・・
    そして、ハンナはそれを恥じ、ひたすら隠し、文盲であることに気付かれそうな昇進の機会を目前にして、あの時姿を消したのだった.
    法廷の場においても、ハンナはそのことを隠そうとするあまりに、裁かれている事件の首謀者と目されてしまう.

    ハンナが文盲である以上、決して首謀者にはなりえないことを裁判所に申し出ようかと、ミヒャエルは悩みながら、哲学者である父に相談する.
    「君は幼いころ、君にとって何がいいことかママの方がよく知っていたりすると、憤慨する子どもだったことはもう覚えていないかな? ・・・・・ 私は幸福について話をしているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ.幼いときでさえ、君はその違いを知っていたんだ.ママがいつも正しいからといって、それが君の慰めになったわけじゃないんだよ.」と父は答える.

    結局ミヒャエルはハンナの秘密を暴くこともなく、ハンナは、無期懲役に処せられ、収監される.

    その後大学を出たミヒャエルは、法史学の教授の下で研究を続ける道を選び、第三帝国時代の法律の研究をはじめる.結婚して、娘をもうけるが離婚し、その間、ミヒャエルは心の片隅でハンナにこだわり続ける.
    そして、その末に、ミヒャエルは監獄の中にいるハンナに「オデュッセイア」の朗読カセットを送る.そして、それを皮切りに数々の文学作品を朗読したカセットを送り続ける・・・しばらくすると文盲のはずのハンナから、たどたどしく書かれた礼状が届いた・・・

    ハンナの仮釈放を前に、刑務所長からの知らせが届き、ミヒャエルはその時初めてハンナに会いに刑務所に出かけ・・・
    「ぼくはハンナの横に座り、老人の匂いを嗅いだ.・・・それは祖母や老いた伯母たちの匂いであり、老人ホームに行くと呪いのように部屋や玄関ホールに漂っている匂いだった.そんな匂いがするにはハンナはまだ若すぎるはずだった.」

    出所後のハンナのためミヒャエルはアパートと仕事を用意したのだが、仮釈放の日の前日に、ハンナは刑務所で自殺する.
    刑務所を訪ねたミヒャエルは、所長から、ハンナが、彼が送ったカセットに吹き込まれた本を図書室から借り出して、テープを聞きながら文字を辿り、文字を覚えたことを知る.

    「彼女はあなたから手紙がいただけることを期待していたんです.彼女に何か送って下さるのはあなただけでした.郵便物が配られるとき、彼女は『わたしへの手紙はありませんか?』と尋ねたものです.彼女の言う『手紙』は、カセットの入っている小包のことではありませんでした.どうしてあなたは彼女にお書きにならなかったのですか?」
    恐らくハンナは、ある日突然に、手紙を待つことを止めたのだろう、待つことを止めるために、「老人」になることを意志したのだろうと、わたしは思った.自分を老人と位置付けることで甘えと決別したのだ・・・自己との鋭い対峙の果てに・・・
    「ぼくはまた沈黙した.話すことはできなかった.できるのはせいぜい、どもることか泣くことぐらいだった.」


    と、こんな風なストーリーです.
    ナチ時代の過ちを徹底的に批判する歴史教育を受け、ドイツの過去の歴史を負の遺産として背負い込んだ世代でもあるシュリンクの屈折、戦争責任の所在とは? 果たして一看守に虐殺の責任を問うことは可能なのだろうか? 裁判官に向かってハンナは問い掛ける.『あなただったらどうしたのですか?』

    時代を超えたものが奥深く脈々と流れている小説でした.ハンナの思いは手にとるように分かる.もしもわたしがハンナだったら、同じようにしただろうな、と・・・時代に流されつつもハンナは毅然と生き、毅然と自己と対峙し、毅然と愛し、毅然と死んだ・・・そんな気がしました.





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     ドストエフスキー著 「白痴」 (新潮文庫) 2003/10/03


    数十年ぶりに、ドストエフスキーの「白痴」を読み返しました.
    文庫本で上下2巻、1100ページを越える長編の上に、昭和45年の版がそのまま使われていますから活字が小さくて、老眼・乱視の身の上にはつらいものがありましたけれど・・・

    この作品は、ドストエフスキー自身が最も熱愛していた作品なのだそうです.彼は、この作品の中で「無条件に美しい人間を描きたかった」・・・それが主人公のムイシュキン公爵なのです.

    かつて白痴同然だったムイシュキンが、その病が癒えて、スイスの療養所からロシアに、小さな包みひとつを抱えて戻ってくるところからこの小説は始まります.その帰りの列車の中で、彼はロゴージンと言う男と知り合います.ロゴージンの口から、ムイシュキンはナスターシャ・フィリッポヴナという類まれな“悪魔的ともいえる美貌”の女性の話を耳にします.この女性がもう一人の主人公.運命に辱められながらも、そのあり方とは関係なしに心の奥底に純潔な魂を秘めた誇り高い女性.
    そして、もう一人.ロシアで暮らし始めたムイシュキンの遠縁に当る、エバンチン将軍家の美しい3女、アグラーヤです.

    ムイシュキンの「寛容と静けさ」は、多くの人々を惹きつけます.人々はその際限のない寛容さに彼のことを白痴(ばか)と呼びつつも彼に惹かれていく・・・ムイシュキンの周りに集まる多くの人物像も、とても生き生きと描かれています.
    かたやロゴージンは一見粗野なエゴイストに見えますが、ナスターシャ・フィリッポヴナを、他の女には目もくれずに彼なりに深く愛しつづける.
    ナスターシャは、最初の出会いで人々に白痴と呼ばれるムイシュキンの「本当の人間」としての本質を見抜き、深く愛するのですが、それと同時に彼の純粋性を恐れるあまり、ロゴージンと共に彼から逃げ出してしまう.
    それから、4者4様の愛の形が始まります.ムイシュキンとナスターシャの不思議な関わり方が、周りにいるありとあらゆる人々を翻弄してしまうのです.

    終章では、ムイシュキンはナスターシャと結婚しようとするのですが、その結婚式の当日にナスターシャはまたもやロゴージンを見つけ出し、彼と共に逃げ出してしまう・・・そしてその日、ロゴージンはナスターシャを刺殺するのです.
    殺されたナスターシャが横たわるベッドのかたわらで、ムイシュキンはロゴージンと共にひっそりと一夜を過ごす.私の一番好きな場面です.それがきっかけでムイシュキンは発狂し、再びスイスの療養所に舞い戻って物語は終わります・・・

    純粋なもの・美しいものは心を惹きつけて止まないものだけれど、それと同時に深い恐ろしさを秘めてもいる.関ることで「穢れ」を与えてしまう、損なってしまうかもしれない恐ろしさを・・・
    「逃げる女」としてしかムイシュキンを愛する術を持たないナスターシャの自己否定.ナスターシャが深くムイシュキンを愛していると知りつつも彼女を愛しつづけるロゴージンの絶望.そしてそのロゴージン自身もムイシュキンに深く惹かれている.つまり、ナスターシャのムイシュキンに対する愛情を本質的に理解しているのです.
    ムイシュキンは「街の女」のように振舞うナスターシャの行動に惑わされることなく、彼女の純粋性を見抜いている、そして彼女の「痛ましさ」に深い同情を寄せているわけで.
    「愛する」と言うことは、この小説の中では「出口なし」の様相を呈しています.

    以前にご紹介した「朗読者」のハンナもそうですが、「逃げる女」としての「絶望的な愛しかた」には、なにやら心惹かれるものがあります.ま、全く建設的ではありませんけどね.(^^ゞ

    それにしても、ロシア文学は読み難い・・・名前ひとつをとっても、愛称やらなにやらいろんなヴァリエーションがあリ過ぎて、注意深く読んでいかないと誰が誰やらこんがらかってしまう.
    え? これ、誰だっけ?? なんてこともしばしばでしたが、大昔の愛読書を再読するのも、悪くはありませんね〜〜

    今は読み終わったばかりでちょっと疲れましたから、しばらくは軽い読み物にしようと思いますが、いずれまた「カラマーゾフの兄弟」あたりを再読してみようかと思っております.
    でも、その前に、眼鏡を新調しよう〜〜っと・・・老眼はそれほどひどくはなってはいないけれど乱視が随分と進んだような… 夕べ町会に行く道すがら街灯を見たら、まぁ、ひとつしかない街灯が重なってたくさんに見えましたっけ… 星はいつも葉巻型UFOですしね〜〜 (;・・;)





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     向田邦子著 「阿修羅のごとく」 (文春文庫) 2003/10/19


    あらすじは、こんな風です.
    70歳になる父親恒太郎に愛人がいる事が判明して、四姉妹は頭を痛める.愛人は40歳でその上子供がいる.子供は恒太郎のことをパパと呼んでいた.それをたまたま目撃した3女の滝子が興信所を使ってそこまでを調べ上げたのだ.
    「みんな、とにかく、どんなことがあっても、お母さんの耳に入れないこと.いいね.」
    4姉妹は“50年も連れ添ってその挙句父に裏切られた”母親を気遣う.

    彼女たちは、そんな心配事を抱えながら、それぞれにまた人には言えない問題をも抱えている.

    長女綱子は、夫を亡くし、息子は既に独立していて、華道の教授をしながらの一人住まい.毎週花を生けに行っている料亭の主人との不倫が進行している.
    次女巻子は、夫に愛人がいるのではないかと疑心暗鬼になっている.相手は秘書なのではないのか、と・・・
    三女滝子は30歳の独身で、図書館の司書をしている.父の調査をしてくれた興信所の勝又に好意を示されるが、異性に関して臆病で、素直になれない.
    四女の咲子は、ボクサーの卵と同棲中である.

    そのような問題を抱えつつ、4人4様にかしましく父の不貞を怒ったり、母を気遣ったり、ケンカしたり、心配しあったりしている.
    そのような状況の中で、ある日、巻子は、父の愛人の住むアパートの前でショールに半ば顔を隠しながら放心した顔でそのアパートを見つめている母のふじを見つける.
    とっさに物陰に隠れようとして慌てた巻子は、道端の子供用の自転車を倒してしまい、その音で振り向いた母と目が合う.

    『その顔に悲哀とも羞恥ともつかぬ色が流れた.唇の端にテレくさそうな笑みを浮かべ、巻子になにか話し掛けようとした、と思うや、ふじはくずれるように路上に倒れた.買い物篭の中の卵ケースの蓋がはずれ、コンクリートのたたきにあたって卵が割れる.黄色い液体が路上に流れ出した.』

    母ふじは、おっとりした性格で、父の愛人のことには全く気付いていないと思い込んでいた4姉妹だったのだが・・・
    そのまま母は意識が戻らず他界する.

    これが物語りの前半です.
    夫の愛人への嫉妬など微塵も顔に表さず、いつもおっとりと構えてきた母親、子供たちの目には何の波乱もなく見えていた母の中に巣食っていた阿修羅の姿を垣間見て、子供たちは、愕然とします.

    長女は、まだ下の二人の妹たちが生まれる前にやはり父が間違いを犯し、その時、夜中に石臼を回しつづけていた母の姿を不意に思い出すのです.母のまわす石臼の音を・・・その音は、まだ幼かった次女の心の奥底ににも刻まれている.

    と、まァ、あらすじを延々と書いても始まらないから、あらすじはこのくらいにして.

    阿修羅というのは、もとはインド古来の異教の神で,怒りや争い,戦いなどが好きな鬼神のことだそうです.後に釈迦に帰依して、仏教を守る八部衆に入ります.また、阿修羅とは争いの絶えない世界そのものをもさすのだそうです.
    ですから、やはり誰の中にも、勿論、私の中にも阿修羅は棲みついているわけで・・・

    ふじの阿修羅は、夫が他の女に心を移したことでふじの中に棲み付いた・・・その阿修羅を、子供たちはもとより夫にも微塵も気付かせずに自分の心の中だけに棲まわせて、夜中に石臼を挽きつづけるふじは、壮絶です.他人に見せない分だけ、ふじが対峙していた阿修羅は恐ろしい顔をしていたに違いありません.
    日常は理性で押さえ込みながらも、時折不意に鎌首をもたげるように立ち上る嫉妬・・・なにやら読んでいて本当に怖かった・・・
    夫の上着のポケットの中から出てきた子供の玩具を、襖に向かって力いっぱい投げつける.それで襖に開いた穴・・・それを綺麗に切り張りしてにこやかに夫を迎える・・・と、そんなシーンもあります.

    女は耐え忍ぶ事が美徳とされていた時代背景が作り出した阿修羅なのでしょう.今の女性はそういう形で耐え忍んだりはしないのかもしれませんけどね.でも、激しく言い争うのもまた阿修羅だ・・・

    まぁ、男と女の問題だけではなく、仕事上のこと、日常的な他人との係わり合い、それらの全てに阿修羅が棲み付くこともある.多かれ少なかれ、人には阿修羅と無縁で暮らすことは出来ないのでしょう・・・
    年の暮れには、除夜の鐘でも撞かなくっちゃ、108ッの煩悩を除くなんて所詮無理な話だけど、やはり日々、阿修羅に内側から喰らい尽くされたくはありませんものね.

    もっとも、この小説は、なにやらお互いに争ったりしつつも支えあう父と四姉妹、そしてその家族たちの、何かしらけなげな部分で救われていますけれど.
    何だか、まとまらない読後感になってしまいました・・・文章も綺麗だし、読み易いし、ギョッとするような女の会話の妙もあるし、かなり面白く5時間ほどで一気に読みきってしまいました.まもなく映画にもなるみたいですから、是非どうぞ〜〜
    特に女性が読むと、かなり共感する部分もあるかもね.殿方にはちょと、怖いかも・・・女はやはり阿修羅ですもん! (^^ゞ




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     カズオ・イシグロ著 「日の名残り」 (ハヤカワepi文庫) 2004/01/06


    “「いき」の構造”について書くよりも、こちらの方が先になってしまいました.(^^ゞ

    この作品は、映画で先に観ました.
    映画では、ミスター・スティブンソンを演じたのはアンソニー・ホプキンス、ミス・ケントンを演じたのが、エマ・トンプソンでした.私はこの映画が大層のお気に入りで、原作者名が、カズオ・イシグロと、どう見ても日本人名ですのでそれにも興味を持って、静岡へ出かけたついでに丸善で購入しました.原作者は日本生まれの日本人で、現在はイギリスに帰化しているのだそうです.

    主人公は、ミスター・スティーブンス.彼は由緒あるイギリスの名家の執事を勤め上げ、その主、ダーリントン卿の死後、ダーリントン・ホールを買い上げたアメリカ人の富豪ファラディの求めもあって、引き続きダーリントン・ホールの執事を勤めている、謹厳実直な執事の手本のような男である.彼の中には、執事としてのプロ意識と誇りがあり、それをまた何よりも大切に初老になるまで家庭も持たずに勤め上げてきたのだ.

    その彼が、ファラディ氏の5週間にわたる帰国に伴って、ファラディ氏からの勧めもあり、ファラディ氏の車を借りて1週間のイングランド南西部への旅行に出かけるところから、物語は始まる.
    その旅行には、もうひとつの目的があった.
    かつて、ダーリントン卿の元でともに働いた有能な女中頭のミス・ケントンを再び女中頭として呼び戻せないものだろうか…
    ミス・ケントンは、結婚してダーリントン・ホールを離れたのであるが、最近来た手紙によるとどうも夫との仲がうまく行っておらず、夫と別居しているらしい.彼女が帰ってきてくれたら、最近のダーリントン・ホールの人手不足から来る仕事上の齟齬が一挙に解決するに違いない、と.彼はこの時、まだ自分の中にある真意には気づいていない…

    旅行の間中、彼は、第2次大戦前のダーリントン・ホールでのさまざまな出来事を回想する.
    さまざまな国際会議の前に秘密裏にダーリントン・ホールで行われたさまざまな会議を取り仕切った、一番華やかだったころのこと.
    有能な執事としての品格についての考察、心から尊敬する主、ダーリントン卿のこと.
    しかし、そのダーリントン卿は、第2次大戦後、対独協力者として糾弾され、失意の日々のうちに死んだ…そのダーリントン卿が、何ゆえひとり対独協力者と目されてしまったのか…

    執事とは、敬愛する主人に仕え、その主人の目的とするところを達成すべく、日常を快適にし、訪れる客や要人たちのために快適な滞在を整える.そして、そのことで、主人の目的とするところへの到達に何がしかの貢献が出来る.主人の抱く政治的思想や信条を批判すべき立場ではない.と、それがスティーブンスの信条であり、それに徹して揺るがないことが彼の誇りでもあった.

    そして、彼は、旅行の果てにミス・ケントンと再会する.
    ミセス・ベンとなっている彼女は言った.
    「私の人生はなんて大きな間違いだったことかしら、と、そんなことを考えたりします.そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生を――たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生を――考えたりするのですわ.そんなときです.つまらないことにかっとなって、私が家出をしてしまうのは… でも、そのたびに、すぐに気づきますの.私のいる場所は夫のもとしかないのだ、って.結局、時計をあともどりさせることはできませんものね.架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある。もしかしたら人並以上かもしれない.早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ.」
    そういって、彼女はバスに乗って、夫と娘そして孫のもとへと去っていった.

    旅の終わり.
    彼は、海辺の桟橋で、沈み行く日を眺めながら、公私共に間違ってしまったのかもしれない自分の生き方を思って泣く.
    ダーリントン卿のあれほど身近に暮らし、一部始終を見ていながら、そのあまりに重大な失敗を救うことも出来ずに唯々諾々と“執事”の仕事に明け暮れていた自分.ミス・ケントンをどこかで深く愛しながら、そして、ミス・ケントンの、自分に寄せる愛をもどこかで感じながら、その愛が“執事”としての自分を損なうかもしれないと恐れ続けてそっけなく遠ざけてしまった自分.そして、今、孤独のうちに否応なく迫り来る老いの影…

    しかし、ひとしきり涙を流した後、我に返って彼は思う.常々彼が思っていたこと…新しい主人は、アメリカ人でありジョークが好きなのではないのか、主人のジョークに対して、軽妙なジョークを返すことが出来ることは、主人が執事に望む任務のひとつなのではないのか…

    「もちろん、私はジョークの技術を開発するために、これまでにも相当な時間を費やしてきておりますが、心のどこかで、もうひとつ熱意が欠けていたのかもしれません.明日ダーリントン・ホールに帰りつきましたら、私は決意を新たにして、ジョークの練習に取り組んでみることにいたしましょう.(中略)お帰りになったファラディ様を、私は立派なジョークでびっくりさせて差し上げることができるやもしれません.」

    読んでいるうちに、映画の配役はなんてうってつけだったのだろうと思いました.
    アンソニー・ホプキンスは大好きな役者で、最近はハンニバル・レクターで有名ですけど、彼の真骨頂はあくまでもこちらにあると思いました.

    古き良きイギリスの、プロ意識の塊のような謹厳な執事.しかし本質はプロであることにしがみつくあまりに、人生の「良き何か」を掴みかねてしまう…どこか臆病で変化に対応できない、飛ぶことの出来ない古いタイプの男の哀しさ…しかし、彼はその「哀しさ」を金輪際自ら認めることはないだろう…それが彼の存在の形なのだから…
    ミスター・スティーブンスが、どれほど練習してもファラディ様を、びっくりさせるだけでなく大笑いさせるジョークを飛ばせるようになるとは、とても思えない…そんな風な“洗練されつくした野暮天男”を、いとも見事に演じておりました.

    本のほうも、一息に読みきってしまいました.時々クスッと笑ったり、ちょっと泣いてしまったり…本・映画ともにお勧めです!! 映画は、ビデオになっておりますから、ビデオ屋さんで見つかると思います.

    中高年になってしまわないと、本当のこの小説の悲喜劇は理解できないのかもしれませんけどネ.喜劇、そして大いなる悲劇…時代が変わるということは、そのこもごもの悲喜劇がわが身にも押し寄せてくるということに他ならないのでしょう.





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     陳舜臣 著 「曹操」 (中公文庫) 2004/05/06


    これは「三国志演義」に悪役で登場する、後の魏の武帝の物語です。

    三国志演義といえば、善玉は劉備玄徳と、相場は決まったようなものだけれど、私はどうも劉備は好きじゃない。どういうわけか、昔から曹操の方にずっと惹かれているわけで…
    多分、この人の何ものにも捕らわれない発想の自由さ、そして、「武」だけでない一流の詩人としての側面を持つと言うその不思議なありように惹かれるのだろう。

    戦をして、相手を滅ぼしながらその相手を見事に吸収していくその魅力。
    戦に破れたと知る時の、逃げ足の速さ。その思い切りの良さはいっそ小気味良いくらいだ。
    そして、何より、曹操の詩。天かける馬のような雄大さがあるのよね。中国の大地を吹き抜ける風を感じるわけ
    。 「儒」から、文化を解放した男。決して皇帝にはなりたがらなかった男。ま、もっとも曹操の息子の曹丕が禅譲という形態を取りつつ漢を実質的に滅ぼして、皇帝になったのだけれど…
    ありとあらゆる人材を集め、使いこなした男。
    何より才能を愛し、才能を持つものたちをかき集めた男。

    多分、時代を超えて遥か彼方を見つめていたのだろう。そして、その分、多分圧倒的に孤独であったのだろうと…

    曹操は、紛れも無く、私の愛する歴史上の男たちの内の1人なのです。





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    浅田次郎 著 「輪違屋糸里」 (文芸春秋) 2004/08/03


    主人公は、本の題名の通り間違いなく、島原の輪違屋(わちがいや)という置屋の天神、糸里なのであろうが、それよりもむしろ幕末の京都で、芹澤鴨の暗殺事件が起こる前後に、好むと好まざるとにかかわらず新撰組と深くかかわりを持たざるを得なかった複数の女たちの物語であると、私には思えた。

    ほんの幼い頃小浜から輪違屋に売られてきた「いと」は、あらゆる芸事に励み太夫の一つ下の位の天神・糸里として輪違屋に暮らしている。
    いとに島原の太夫とはどのようなものであるのか、その矜持を教えた音羽太夫、彼女はこの本の冒頭で芹澤鴨に無礼打ちに切り殺される。
    江戸を捨てた莫連女で、菱屋という呉服屋の妾でありながら、ついに本妻を追い出し、傾きかけた菱屋の身代を背負って立っているお梅、彼女は掛取りに新撰組をたずね、その折、芹澤鴨に手篭めにされ以来芹澤の愛人でもある。
    菱屋の主、太平衛の姉で、会津藩の御用を承る両替商前川に嫁したお勝。その前川は壬生の郷士の株を買い取る形で壬生に移り住んでいる。
    そして、その壬生住人士の内の八木家の内儀、おまさ。おまさとお勝とは、壬生の郷士としてその住居内に新撰組の浪士たちを住み込ませ、その世話をせざるをえない立場にあった。
    糸里と同じ天神の吉栄、彼女は芹澤鴨の手下、平山五郎の愛人である。

    そしてそのそれぞれを巻き込んで、芹澤鴨の暗殺事件へと話は収斂されていく…

    女たちはそれぞれに誰にも告げず密かに魂の奥底で悩んでいる。そしてその暗く深い悩み、苦しみの中から、それぞれがそれぞれなりに潔く立ち上がる。潔く死に赴くもの、潔く己の生き様を掴み取るもの…

    女たちは、揺れ動きながらもいつもまっすぐに男たちを見据えている。その見つめる相手が愛人であれ、夫であれ、突然に住み着いてしまった得体の知れない若い浪士たちであれ、彼女たちはまっすぐに、一心に、彼らの魂の奥底を、覗き続けている。なかなか見えないその魂が、まざまざと彼女たちの目に映る瞬間がある。

    その視線の主がたった16歳の天神、糸里であったとしても、そこに感じられるのは「母性」だ。
    男たちの、やるせのない業に似た生き様を、もって行きようのない愛情で包み込んで深閑と佇む母性そのものなのではないのか…
    決して媚びず、頼らず、問い質しも非難もせずにただ真っ直ぐに見つめ続ける。おのずから立ち昇ってくるまで… その強さはそれなりの修羅場を誠実に生き抜いてきた女のもので、おそらく男には持ち得ない強さなのだろう。

    この小説を読んで、浅田さん、ある意味で女を美化しすぎじゃないの? と思う反面、女の奥底にはこのようなかたちでの愛が確かに居座っているとも思ったわけだ。
    だから、壬生義士伝を読んだときのような、涙する感動があったわけではない。それよりも、なにやら心の内を深く覗き込まれたような面映さを感じてしまったわけだ… 私の中には、これほど純な形ではないにもせよ、いとも音羽もお梅も、いえ、此処に登場するあらゆる女たちが住み着いているのだから… 多分、明治に育てられた所為かもしれないけれど… まいったね… (^^ゞ





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    白洲正子 著 「西行」 (新潮社) 2004/09/10


    西行という人について、私の知っていることはほんの僅かだった。
    元は北面の武士であり、親しき友の死に世の無常を知り、勃然と出家する。
    追いすがって引き止める我が子を、縁側から蹴落として…
    そして、歌人としての西行。数々の歌集。西行桜。桜を求めての旅。まァ、そんなところだ。
    「空気のように自由で無色透明な人物」

    西行という名前を聞いたとき、すぐに思い出す歌。
    ねがはくは 花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
    辞世の歌と言われている歌だ。

    私の父の命日は4月2日、母は3月25日。
    どちらの葬儀の時も、火葬場では桜が咲いていた。季節の移ろいなど感じる余裕もないままに過ごした長い日々の後だったから、どちらのときも火葬場の片隅に咲き誇る桜に激しく胸を衝かれた。多分その経験が裏打ちされているのだろう…
    死ぬのなら桜の花の頃がいい…

    しかし、この「花」は、果たして桜なのだろうか?? 「きさらぎ」とあるからには2月。如月に咲く花が桜であろうはずは無い。昔、何かの本で、この時代「花」といえばむしろ桜よりも梅であったと言うようなことを読んだ覚えがある。しかし、どういうわけか私の中にあるこの歌は抜きがたく桜と結びついているわけで…


    梶井基次郎の作品の中に、「桜の樹の下には屍体が埋っている」という書き出しの作品がある。

    「桜の樹の下には」は、ここで読むことが出来ます。

    桜の花からは、やはり「死」の匂いが漂ってくる。ま、それはそれとして…


    で、この本。白洲正子著「西行」
    西行が“桜狂い”であるのならば、白洲正子は“西行狂い”なのかもしれない。
    西行の足跡を辿りながら西行の内面に踏み込もうというその姿勢。これは評論でも西行研究でもない、西行に寄せる彼女の恋歌なのだろう… その意味で、大変面白く読み終えた一冊である。
    もっとも、如月の望月の頃に咲く花の名前が解決を見たわけではないが。

    改めて、この本で詳しくその時代背景を知った。
    白河法皇、鳥羽天皇、鳥羽天皇の中宮だった待賢門院璋子、崇徳天皇との関わり。保元の乱へと結びついていく様々な思惑と陰謀。陰謀に破れた崇徳天皇は、讃岐に流される。

    鳥羽天皇と中宮璋子の間に第一皇子として生まれながら、白河法皇の胤だと噂され、父である鳥羽天皇からも「おじ子」と呼ばれ続け、白河法皇の崩御後に鳥羽上皇によって譲位を迫られ弟にそのくらいを譲る。
    その悲劇の天皇に、西行は特別な思いを抱いていたという… 中宮璋子、後の待賢門院への思いの延長だったかも知れない。

    やはり、死ぬのは春がいい。ましてや桜の花が満開であればそれが一番好ましい…
    私の中には、昔から何かしら隠遁願望、放浪願望があるらしい。そのことも、私が西行に興味を覚えることの一つなのかもしれない。西行ほど長くは生きたくないのだけれど。





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    プリスター・フキン 著 「コーカサスの金色の雲」 (群像社) 2003/11/


    先日、北オセチア共和国で起きた悲惨な学校テロ事件が引き金でこの本を読み始めました。

    チェチェン人、チェチェン紛争。言葉としては知っています。ロシアで起きるテロ事件の大半はチェチェン問題に起因していると言うこと…
    第1次、第2次チェチェン紛争はまだ記憶に残っていますから、10年位前のことでしたでしょうか? しかし、それが何を意味するのかは良くわかっていいない…


    で、この本。

    第二次大戦末期、モスクワには孤児たちが群れていた。孤児院に入ったところで、孤児のために支給される食料はオトナたちが掠め取り、彼らはいつも飢えていて、しかし逞しく彼らなりに知恵を巡らせ市場でかっぱらいを働いたりしながら生き延びていた。
    その中に双子の兄弟がいた。サーシカとコーリカである。
    サーシャは頭がいい。だから戦略を立てるのはいつもサーシカ。で、逞しく行動するのはコーリカである。彼らクジミン兄弟はいつも一緒。あまりに似ているからどっちがどっちか誰にもわからない。

    ある日、彼らは孤児院の院長からコーカサスへ行けと言われる。コーカサス? 物語の中でしか知らない遠くの場所。
    でも、ここより悪いと言うことはないさ、と彼らは500名の孤児たちと共に食料も与えられず数日間はかかるというコーカサスに向かって汽車に乗る。勿論、食料は途中停車の駅の市場でかっぱらう。それナシには死んでしまうから… 汽車の中で彼らはレギーナ先生という美しい女教師と仲良くなる。

    着いた村は奇妙だった。誰も摘まない花が咲き、りんごが実り、畑には収穫を控えてジャガイモやとうもろこしが育っているのに数時間歩いても人っ子一人とて行き逢う人のいない村。

    「確かに僕たちは、何か信じがたい実験のために荒野に放たれた動物に似ていた。」
    「僕は覚えている―――いったいなぜ、あの時、あんなに強く自分の中で痛むものがあったのか? いや、それはきっと僕だけではなかった。もしかすると、新しい土地でも幸福などまってはいないのだ、と言う恐ろしい思いがよぎったためかもしれない。だいいち僕らは幸せなんて知らなかった。ただ、生きたかっただけなのだ。」

    慌しく作ったらしい子供だましの看板を掛けた孤児院の敷地や建物の中をクジミン兄弟は調べまわった。幼稚な錠前とかんぬきのかかった物品倉庫… 生垣にあいた秘密の抜け穴。そこから川に、近くの果樹園に、そして村に行ける。夜には村の畑で懐やポケット一杯にジャガイモを詰め込んで帰ってこられるじゃないか。

    そんな生活の中で、時々山の方から、ドーンと響く音が聞こえる… 何の音だろう? サーシカは地雷を破裂させている音だと言うが…
    時々響いてくるその音に何かしらの恐怖心を覚えながらも、彼らは逞しく生き始める。手伝いに行かされたコルホーズの工場で、見張りの目を盗んでジャムの瓶をかっぱらって秘密の場所に隠す。物品倉庫から衣類を盗み出す…



    そうしているうちに、村で事件が起きた。最初にレギーナ先生の家が手榴弾を投げ込まれて焼かれた。
    ある日、孤児たちとコルホーズの村人たちの交流のための「友情の夕べ」という催しがあった。孤児たちは歌を歌ったり手品をしたり。その最中に馬の蹄の音が轟いた。馬のいななき、呼び合っているくぐもり声。その後、ドカーンと大きな音がした。それは子供たちが乗ってきた自動車が爆破される音だった。車と共に焼け死んでしまった陽気な美しい女の運転手…

    火事の後、体調を崩したレギーナ先生は先生の子供たちと一緒に、静養のために線路の反対側の山の中の自給用の畑に行かされることになった。

    「この子たちだけでは怖いの。皆で一緒に住みましょう。家族みたいに…ね? わかった?」 しかし、クジミン兄弟には家族のことが理解できなかった。
    二人にとって世界は家族のあるものと、家族のないものに分かれており、この二つは今に至るまで両立し得なかった。

    しかし、彼らはレギーナ先生と共に暮らし始める。
    そしてある日、彼らは先生のところを訪れた入植者のデミアンの荷馬車に乗って、再び学校へ戻る。隠してあるジャムの瓶を取ってくること、そして何やら恐ろしげなことが始まっているここから逃げ出す準備をすること。逃げ出すためにはジャムの瓶は絶対に必要だ。

    ところが、着いてみると学校は既に襲われた後だった。彼らは逃げる。しかし、馬に乗った黒い集団に追われながら逃げる途中でコーリカはサーシカやデミアンとはぐれてしまう。コーリカは死に物狂いでサーシカを探し…たどり着いた村も孤児院と同じように窓が割られており…そこでコーリカはサーシカを見つける。

    柵のとがった切っ先に脇の下をひっかけてぶら下がったサーシカの死体。
    切り裂かれた腹に黄色いとうもろこしの束が突き出し、口には半分に折ったとうもろこしのみが突っ込んであり、カラスにつつきだされて目がなかった…

    あれだけの思いをしてこんな所までやってきたのは、腸を抉り取られてそこにとうもろこしを突っ込まれるためだったのか? 「俺たちの作物をたらふく食え。口からはみ出すほど食えって!」

    コーリカは置き去りにされた荷車にサーシカの死体を積んで駅に向かって歩き始める。クジミン兄弟はいつも二人一緒だ…


    「聞いたろ? ソビエト軍の栄えある勇敢な兵士たちが言ってた…チェチェンを殺しに行くって。兄ちゃんを貼り付けにしたやつも殺される。そいつに出くわしたら、そう、オレなら殺さないよ。ただ眼を見てやる。お前は人間か獣かって、生き物らしいところがあるのかって。生き物らしい所があれば聞いてやるんだ。どうして乱暴して荒れ狂うんだ? どうして片っ端から殺すんだ? 俺たちが何かやったか? 言ってやるよ、チェチェン,眼がつぶれたのか? 俺もサーシカもお前らと戦ってないだろう? 俺たち、ここで暮らすようにって連れてこられた、それで暮らしてる。でも、どうせまた出て行ったさ。それがこんなことになっちゃって…お前はサーシカと俺を殺した、兵隊たちが来て今度はお前を殺す…お前も兵隊を殺そうとする。そして、皆、兵隊も、お前も死んでしまう。お前も生きていて兵隊たちも生きている、俺もサーシカも生きているってほうがいいじゃないか? 少年院にあつめられてきて、一緒に暮らしている俺たちみたいに、誰の邪魔もしないで、皆が生きているようにできないのか?」

    ほとんど意識を失うように眠り込んでいたコーリカが眼を覚ますと、そこにはやはり孤児となったチェチェン人の子供アルフズールがいた。ソビエト兵に見つけられたときに、コーリカはその子供をサーシカだと、自分の兄弟だと言い張り、二人は収容所の中でも片時も離れようとはしなかった。

    この作者は、やはり孤児で、その実体験を作品化したものなのだそうです。
    後になって、彼は、この無人の村のチェチェン人たちは、ドイツ軍に加担した反ソ的な民族であるという理由で一晩のうちに集められ、貨車に詰め込まれカザフスタンやキルギスに50万人が強制移住させられたこと、再び戻ってきたときにはその数は3分の1になっていたこと、強制移住を逃れて山に逃げ込んだ一部チェチェン人たちがゲリラになって、自分たちの村に住みついた入植者たちを襲っていたことを知ります。自分たちのものを取り返すために…


    歴史とは連綿と続いているもので、現在の事象のみを切り取って軽々に判断できるものではない。 出口の無い民族紛争は弱者と弱者が血で血を洗う暴力の連鎖にすっぽりと取り込まれてしまうわけで…
    今回の事件の起こった北オセチア共和国も、チェチェンと同じコーカサス系の民族イングーシ人の国で、彼らもまたチェチェン人と同じように強制移住させられた民族である。そのことは出口の無い現在の状況を余りにも象徴しているような気がした…


    アルフズールをサーシカだと言い張るコーリカ、そして、「俺たち、兄弟」と片言のロシア語で叫び続けるアルフズール… 確かに本当はこれが原点のはずだ…
    民族と宗教とによって流される血の余りに多い今世紀に生きる私たち…





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    グレアム・グリーン 著 「おとなしいアメリカ人」 (ハヤカワepi文庫) 2003/11/14


    この小説の時代背景は1950年頃の仏領インドシナであり、主人公は初老のイギリス人特派員、トマス・ファウラー、アメリカからやってきた経済使節団の一員である若いアメリカ人、オールディン・パイル、そしてファウラーの愛人であるアンナン娘フォンの3人である。

    当時のインドシナ… 台頭し始める民族主義、それを支援する中・ソ共産国、かろうじて命脈を保っている宗主国としてのフランス・西欧植民地主義、そして反共の立場からその抗争に介入しようとするアメリカの、4者4様の思惑が入り乱れ西欧植民地主義は退廃しその力を失いつつあった、と、これが時代背景である。

    宗教上の理由から離婚に応じようとしない妻をイギリスに残し、ファウラーは特派員としてインドシナでフォンと暮らしている。そこに現れたのが若いアメリカ人のパイルであり、パイルは一目見てフォンに恋をする。そこから始まる、ファウラーとパイル、そしてフォンの三角関係、それが一つ流れるストーリーである。

    それと同時に、当時の政治情勢における、古きヨーロッパと新しきアメリカ、共産主義者、第三勢力… 
    特派員としてどちらの側にも組しないと言う姿勢を貫き通そうと決意しているファウラーに対し、パイルは、インドシナの現状を良く知らぬままに「デモクラシー」を標榜する或る評論家の説にかぶれ、第三勢力と目される民族主義者(ファウラーの目から見ると単なる山賊の類に過ぎないのだが…)のために外交特権を利用して武器や爆弾などを調達している。その結果としてのテロ行為で全く意味もなく命を落とす無辜の人々… 救うべきはずのインドシナの民…
    しかしパイルは、そのことを、デモクラシーのため、と、一言のうちに切り捨てる。

    パイルの行動をこのまま放置するわけには行かないと、ついにファウラーは共産主義者たちの求めに応じてパイルを呼び出す… そしてパイルの刺殺死体が川に浮かぶ…

    と、まぁ、ストーリーはこんな風。
    出版された当初は、グレアム・グリーンが公然とアメリカ批判をしたと物議をかもしたそうです。

    でも、こうやって読んでみると、現在のイラクや中東に置けるアメリカの姿勢と余りに重なって… 第三勢力を育てる… かつてのタリバンや、ビン・ラディンを第三勢力として育てたのは確かにアメリカだ…
    民族性やその国固有の文化を、全て「デモクラシー」と言う名前の「アメリカの」正義に置き換えて恥じないその在り方… それの招く限りない混乱… 在るものを在るがままに受け止めることの出来ない貧しさ・幼さ… まるで今日の情勢をを予言しているような…


    私がこの本の中で一番興味深く思ったのは、初老の特派員ファウラーの心の動きでした。
    多分、初老と言う点で私の年齢と重なる部分が、彼の心情のあり方に共感を覚えさせるのでしょう。
    出会うべき年齢で出会うべき本に出会った、とそんな感じ。

    さて、その共感をどう語りましょうか?

    パイルのように、恥じることも己を疑うこともなしに自分の「愛」を信じることなど出来ない、パイルのように、標榜すべき絶対の正義などは持ちえないファウラー。
    「おれの同業ジャーナリストたちはコレスポンデントと自称しているが、おれはリポーターという呼び名の方が好ましい。おれは見たことを書く。おれは行動しない―――意見を立てることも一種の行動だ。」

    人は、他人によって幸福にされることもなく、不幸に落とされることもない生き物だ。先には「老い」と言う名の絶対の孤独が口を開いて待ち受けているだけ… ファウラーの底を流れるシニシズム。深く澱んだアンニュイ。

    フォンを愛しているわけではない。フォンそのものに執着しているわけではない。ただ、足元に蹲って無心にアヘンをパイプに詰めて差し出してくれるフォンとの時間で孤独を埋めたいだけだ… フォンがパイルの元へ行ってしまっても、それは孤独を突きつけられただけのことで、激しく嫉妬するわけでもない。

    仮に嫉妬を覚えるとしたら、「正義」や「愛」を疑うことを知らないパイルの、その無邪気さ。圧倒的な経験不足から来る、堂々として恥じることを知らないその無邪気さ。その無邪気さが孕むこの上ない危険性に気付きもしないその若さだ…
    政治に対しても、愛に対しても、「善意」の持つ恐ろしさを考えることのない、その無邪気さ。

    年齢を重ね、経験を重ねると、否応ナシに全ては曖昧になってくる。振りかざすべき正義も愛もなにやら怪しげで、全てが混沌と輪郭を失ってくる。
    結局のところ、何によっても傷つけられることすらない自分自身がある。と、その事で自分自身に深く傷つくわけだ…

    あらら、私、何を書いているんだろう? だいぶ本題から遠のいてしまったかも〜

    この本は、立て続けに2回も読んだのです…
    それにしては、この文はなってないな〜 何もかにもが曖昧に思われる自分の現在の心情にに引きつけ過ぎて読んでしまったからかなァ? (^^ゞ





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    宮尾登美子 著 「きのね」 (朝日新聞社) 2003/11/


    yuuちゃんから、宮尾登美子の「きのね」と「天涯の花」の2作をお借りして、まず「きのね」を読み始めました。
    十一代目市川団十郎の奥さんをモデルにして書いた小説だと言うことです。

    歌舞伎役者の家へ女中奉公にあがった光乃がその主人公。団十郎はこの小説の中では雪雄という名前で登場します。

    歌舞伎役者の家へ女中として奉公にあがった光乃が、梨園の御曹司、雪雄に仕え、健気に激しく生き抜くという、まぁ、女の忍従の昭和史のような物語です。
    耐えて、忍んで涙しつつも陰に生き、1人の男を支えぬく女の強さとでもいうのでしょうか。
    雪雄を愛し、雪雄の子供を身ごもり、1人で出産するシーン。初めての子で逆子だったにもかかわらず、頼る人もなくたった1人で長男勇雄を出産し、気丈にも次の日から立ち働く彼女。
    結局は彼女は雪雄が新たに大名跡を襲名するのを機会に雪雄の正妻に納まり、その後雪雄の芸に磨きがかかりつつあるとき、雪雄は癌に侵され死んでしまう。
    光乃は、残された勇雄のために残りの人生をささげる、とそんな風な話です。

    ちなみにタイトルのきのねとは、舞台が始まるときや劇中になる柝の音(きのおと)のこと。作中で出てくるが、楽器の音色を「ね」というが、この場合は楽器ではなく柝の音ですから「おと」と読むのが正しいのだそうです。

    私は正直言って宮尾登美子は苦手なのです。
    彼女独特のあの文体の持つ湿り気とか生暖かさのようなものがそもそも苦手だし、題材に選ぶ女の一生というのもちょと苦手。
    ですから、この小説も、後半は読んでいて息切れしちゃいました。
    私自体が、とても男に尽くすってタイプじゃないから特にそうなのでしょうかねェ。(^^ゞ

    何だか、宮尾さんも後半は息切れしていらしたのではないかしら? そんな印象を受けました。

    昔の、私の母の世代などには、そういう生き方が女の美徳とされていたわけで、それを貫き通す生き様というのも、それはそれで見事としか言いようもないけれど…

    でも、考えてみれば、私くらいの年代の女たちは、どこかに捨てきれない「美徳の尻尾」を引きずっているのかもしれません… イマイチ、若い人たちのようにはスッパリと割り切れない部分を引きずっているわけで。かといって、それを「美徳」と呼ばれるのにもかなりの抵抗があって、つまり自我意識も強くあるわけで、まぁ、全くのところ中途半端な世代なのでしょう。だからこそ、どっちつかずの分だけ余計に抵抗を感じるのかも。何ともかったるい…。

    そんな具合で到底、宮尾登美子を2作も続けて読む気にはならず、「天涯の花」は、後日ということにいたしました。





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