【 心に残る一行 】



手当たり次第のいい加減で無節操な乱読を続けていると、
このまま読み捨てて忘れてしまうには忍びない一行に出会うことがあります。
そんな一行と出会うたびに、書きとめておいてみようか、と…


さびしさに たへたる人の又もあれな 庵ならべむ 冬の山里

【西行法師】

人の心の傷をまっとうに推し量ることの出来る人は、やはり心に言い知れぬ深い傷を負っているのでしょう。
聞きただす訳でもなく、語ることすらしようとはしないそのあまりに深い傷は、つつましく眼差しで受け止める他はないものなのだから。
寡黙に庵を並べるお互いの、静かに孤独を見据える優しさは言葉を越えているわけで…


春に逝く 人の眼(まなこ)の 闇深し

【濱野正美句集「春の馬」】

その闇は、逝く人の闇でもあるけれど、またその人に対するおのれの闇でもある…
他者に対する思いは覗き込む自分自身の闇にも似て…


佛に逢うては 佛を殺し
祖に逢うては 祖を殺し
羅漢に逢うては 羅漢を殺し
父母に逢うては 父母を殺し
親眷に逢うては 親眷を殺し
始めて解脱を得ん
物と拘(かか)はらず透脱自在なり

【臨済録示衆章】

これ、いい加減に手前勝手に解釈すると大変なことになっちゃうけどね…
でも、実際のところはそうなのだろうな、と。


伝統工芸は、九割までが技術で、あと一割が魔性である。
その魔性がどう昇華するかで作品がきまってしまう。

【司馬遼太郎 「以下、無用のことながら」】

この「以下、無用のことながら」は司馬遼太郎のエッセイ集です。新聞や雑誌に載ったもの、何かの本の序文としてかかれたもの等、短文が載っていて、寝る前にベッドの中で一つ、二つと読んでいるのですが。
この一行に出会って、うんうんと納得するところが多々ありました。

私などは家業としての連綿と受け継がれた技術を含めて七宝を引き継いだというわけではありません。カルチャーの延長としてこの世界に飛び込んでしまった「カルチャーオバサン」に過ぎないわけで、表現したいことが先にあり、それを表現するための技術を慌ててかき集めては身に付ける、と、いわば「泥縄」、それの繰り返しでした。いえ、過去形ではなく、全くのところそれは現在も、なのですけど…
言ってみれば、技術が足りなくてなんとも表現不可能な「魔性」の方が先に私の中に棲み着いてしまったのでしょうね。というよりも、ひたすら私の不精がこの歳になっても技術の不足を補い損ねているんでしょう… 昇華するに至らない魔性に振り回されっぱなしで、情けないことであります。 (^^ゞ


しかしショパンはどうだろう?
たとえば、スケルツォ第4番。
あれはまだ飛び方を習得していない天使を描いている。
岩壁に衝突し、自分で翼を繕う。

【ユーリー・ボリソフ 「リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢」】

リヒテルの演奏になるショパンを、私はまだ聴いたことがありません。どうも、リヒテルとショパンとは私のイメージの中ではしっくり来ないような気がするからです。でも、一度、自分で翼を繕っている天使を見てみないといけませんね。


ひとの器量は、どこまでをおのれの責めに帰することと捉えるか・・・その大きさで決まると考えている。
(中略)
おまえもおれも、おのれへの問い直しを忘れさえしなければいい。

【山本一力 「損料屋喜八郎始末控え」】

こういう考え方は、とても自分にしっくりとなじみます。ま、私が時代小説を好んで読む理由はこの辺りにあるのかもしれません。多分、私って、かなり時代に後れてるのかも〜 (^^ゞ


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