工芸としての七宝の歴史・日本編



目次

  • 近代の七宝
    • 梶常吉
    • 林小伝治
    • 梶佐太郎
    • 塚本貝助とワグネル/アーレンス商会
    • 並河靖之
    • 涛川惣助
    • 尾張七宝と京七宝




    皆さんは、七宝と言うとアクセサリーをイメージされるのではないでしょうか. しかし、バッジ七宝から派生してアクセサリー七宝が作られ始めたのは昭和30年代のことで、たかだか60〜70年くらい前のことなのです.
    日本の七宝の歴史は、ずっと古く、遠く古代から始まっています.
    ここでは、簡単に日本の七宝の流れを、図版を交えながらお話していきたいと思っています.
    (図版はクリックすると大きいものが見られます.)

    《参考文献》 
    「日本の七宝」鈴木則夫・榊原悟著 マリア書房 昭和54年
    特別展 七宝 名古屋市博物館 1989年
    「明治の七宝」編集 財団法人佐野美術館 平成20年
    並河靖之七宝 東京都庭園美術館 2017年
    七宝技法のすべて 川本正一著 アマチュア技術研究会出版部
    七宝文化史 森秀人著 近藤出版社
    他:緑青 vol.29 マリア書房  /  家庭画報 2003年2月号 / 日本の美術 No.332 至文堂  / なごみ 1998年6月号 淡交社  / 目の眼 No.301 里文出版 など 



    古代の七宝

    亀甲形金具 (7世紀) 重要文化財指定

    日本の七宝の歴史は遠く古代にまで遡ります.
    しかし、それら古代の遺品で現存しているものはほんの数例しかありません.
    この亀甲形金具は、7世紀後半ごろのものと考えられています.
    奈良県明日香村の牽牛塚古墳 (けごしづかこふん) より大正3年に出土したもので、乾漆棺の飾り金具と推定されています.
    朝鮮製か、または朝鮮半島の工人が原料を持ち込み作ったものだろうと考えられています。

    奈良県立橿原考古学研究所付属博物館蔵 : 3.3×4.6cm






    黄金瑠璃鈿背十二稜鏡 (7〜8世紀)

    正倉院の宝物の中に、唯一の七宝製品である黄金瑠璃鈿背十二稜鏡があります. これは、銀製の鏡の背面に、31枚のパーツに分けて焼成された金胎七宝を漆系の接着剤で貼り合せた、大変保存状態のよいものです.
    鏡は銀製であり、素地と金属線には金を使用しています.
    正倉院宝物に関する文献には、この鏡の記載がないために、どこでいつ頃作られたものかについては様々な説があるようです.
    7〜8世紀頃、大陸で作られて、日本にもたらされたとの説が有力視されています.

    正倉院蔵蔵 : 径 18.5cm


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    中世の七宝


    中世には、七宝の技術はいったん途絶えたようで、ほとんど見るべきものはありません.
    室町時代になると、日明貿易が始まり唐物といって中国より渡来した工芸品が珍重されました.そのころの美術品を鑑定、記録した 「君台観左右帳記」という文献の中に “七宝” という語がはじめて登場します.
    しかし、その色彩の華麗さが、かえって「わび・さび」を貴ぶ茶の湯の流行の下では茶人の受け入れがたい所と取られたのでしょうか、一般的な支持は得られなかったようです.

    《七宝の語源》
    阿弥陀経・法華経の中に「極楽浄土は金・銀・ルリ・シャッコ・ハリ・真珠・メノウなどに彩られて七宝荘厳である」と説かれていた。
    その七つの宝の光を併せ持つ焼物であるというところから「七宝」あるいは「七宝瑠璃」と呼ばれるようになった。


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    近世の七宝


    安土桃山時代末期の慶長年間に、朝鮮の技術者より七宝の技術を学んだ、はっきりとした日本人による七宝制作が始まりました。 この時代になると、大書院建築の障壁画に象徴されるように明るく動的で色彩の豊かな芸術が生まれ、このあたりから、室内装飾の脇役としての七宝が脚光を浴びてきます. しかし、この時代の七宝は泥七宝であり、艶はなく、現代のようなガラス質の七宝とはその趣が異なっており、神社・仏閣などの建築物の金具などにたくさん使われていますが、見ても気づかずに見落としてしまうことが多いようです。 この時代の代表的な七宝師に、平田道仁と、嘉長がいます.そしてこの頃から江戸中期にかけて、日本の七宝は、大輪の花を咲かせ、その後、再び衰退していきます.


    建築物の金具類


    富士山形釘隠しと花筏形釘隠し

    富士山形釘隠しは京都の曼殊院・大書院にあります。大きさは4.5cm×11.2cmで、長押の釘隠しです。花筏形釘隠しは同じく京都の西本願寺・黒書院の長押の釘隠しです。

    平田道仁 (1591〜1646)


    花雲文七宝鍔 重要文化財指定 個人蔵 径8.4cm

    平田道仁の作と伝えられている刀の鍔です. これは刀の鍔ですから、素地は鉄でできています.ところが七宝の釉薬は、鉄には焼き付けることが出来ません.
    従って、この七宝の文様の部分は、金の箱を作ってその中に七宝を焼き付け、その箱ごと鉄の地に象嵌したものであると考えられています.
    また、鮮やかな透明色を使ってあることも驚きの一つです.当時の七宝は「泥七宝」と言って、不透明の釉薬が使われていました.
    安定した透明色が得られるようになったのは明治以降、後述するワグネルによってです.ところがこの時代にこのような透明色の作品が存在しているのです.
    また、部分的に施されている赤透は、柿右衛門が赤絵磁器を作り出すよりももっと以前の作品であることを考えると、その技術の水準の高さに驚かされます.
    この道仁を祖とする平田派は江戸時代には幕府の七宝師として活躍し、明治時代まで11代続き、明治期には勲章製作に携わりました。
    しかし、その特殊な用途と相伝と言われる閉鎖的な伝承形態のために、その技術は広まりませんでした。

    富士山鹿図小柄 9.6cm(上)・雪山夜景図小柄 9.8cm(下)

    これも平田道仁の作と伝えられている小柄です.


    嘉長と小堀遠州


    栄螺文引手 桂離宮・琴松亭一の間の引手 

    平田道仁とほぼ同時代に活躍していた七宝師に嘉長がいます.本当は、果たして実在していたのかどうかは文献も残っておらす、不明な人物です。
    嘉長は “桂離宮” の七宝引手類の制作をたと言われています.
    “桂離宮” は、当時の大名であり茶人でもあり、そして何より当時の美術文化に多大な影響を与えたアートディレクター・小堀遠州の作品です. 遠州は特に七宝を愛して、自らも七宝の茶器を愛用していたと言い伝えられています.
    従って、小堀遠州の手になる建築には、七宝の引き手、釘隠しが使われていることが多いようです.
    カラーの図版が手に入らなくて、モノクロですけど…カラー図版が見つかり次第変える予定です.それまで、我慢して下さい.


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    加賀の七宝


    (百工比照の内) 鳥籠形釘隠 重要文化財指定 前田青徳会蔵 13.5×19.5cm

    近世にあって、加賀・前田藩が学問・美術工芸に対して示した熱意は特異なものでした.
    五代藩主前田綱紀は、古今の書物の収集をはじめ、美術工芸の奨励発展のために、紙・木・竹・染織・革・金属などの素材を加飾する工芸技術全般の標本を作らせ整理しました。
    これらの標本群が「百工比照」です。
    これらを基本としてその収集は江戸後期まで続けられており、江戸時代の各種工芸技術の第1級の資料として重要な価値を持っています。
    その「百工比照」の中に一連の七宝釘隠しがあります。これらは五代将軍綱吉を招くために作られた 「御成書院」 に使われたもので、いずれも模様部分を彫りこんで七宝釉を施した象嵌七宝であり、江戸時代中期の七宝の代表的なものといえます.
    この鳥籠形釘隠は「御成書院」の中にいろいろなバリエーションのものが11点あります。

    (百工比照の内) 花籠形釘隠 重要文化財指定 前田青徳会蔵 14.4×20.9cm

    華やかな花籠形の釘隠です。
    常に謀反を疑われる立場にあった前田家は、藩の中に御細工所を作るなど、美術工芸に力を注ぐことで謀反の疑いを晴らしたのではないのかともいわれています。
    この花籠形釘隠は「御成書院」の中に、いろいろなバリエーションのものが6点あります。



    (百工比照の内) 虫籠形釘隠 重要文化財指定 前田青徳会蔵 11.1×15.4cm

    この虫花籠形釘隠は「御成書院」の中に、いろいろなバリエーションのものが3点あります。




    日光東照宮


    位記宣旨箱

    日光東照宮は近世の七宝の一大宝庫といわれています.
    この “位記宣旨箱” は、梨子地に平蒔絵による葵紋を全面に散らしてあり、その鍵部の飾り金具に七宝が使われています.
    その他にも、渾天儀 ( 天文機器の一種 )や、拝殿前の鋳銅製の燈篭の一部に七宝の施されたもの、あちこちに使われている飾り金具などに七宝が使われています.
    ただ、現在の七宝とはかなりイメージの異なった “泥釉” が使われているために、気付かずに見過ごしてしまう場合も多いようです.

    位記宣旨箱 鍵部の飾り金具

    この “位記宣旨箱”の鍵部の飾り金具の拡大図版です.


    東照宮坂下門 飾り金具

    東照宮の坂下門の飾り金具です。だいぶ前のことですけれど安藤七宝店がその修復に携わっていて、修復した金具の見本を見せていただいたことを記憶しています。



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    文具・調度


    鶴菱紋水滴 個人蔵 長径12.5cmと 紅葉散文水滴 径3.8cm 高1.2cm

    江戸時代前期から中期にかけては、文具・調度の類に七宝が多用されています. 調度類として、有名なものは、初期の頃では、京都・曼殊院 小書院の富士山形の釘隠、名古屋城上洛殿の引き手、中期には、京都・角屋の襖の引き手等があります.
    しかし、どういうわけか、江戸後期になると、その原因は定かではありませんが、七宝は技術的にも稚拙なものとなり、衰退していってしまったようです.
    江戸時代中・末期の引手類

    技術的にはともかく、なかなかかわいらしいものがたくさんあります。。


    名古屋城の七宝金具


    葵文引手 名古屋城上洛殿 13.0×11.0 名古屋場管理事務所蔵

    3代将軍家光が上洛する際の宿舎として造営された上洛殿のふすまの引手です。
    上洛殿の襖や杉戸の引手ばかりではなく釘隠しなどの金具類のことごとくに七宝の装飾が施されていたそうですが戦災でその多くが消失しました。
    たまたま戦火を逃れたのがこの引手です。その制作年代を確定できる数少ない江戸前期の基準資料の一つと言われています。
    名古屋城の木造化が成れば、取り付けられるのでしょうか? 


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    近代の七宝

    明治期の工芸を取り巻く政治情勢

    明治初頭のごく短い期間に、我が国の七宝を含む工芸はその技術的な側面のみならず芸術性においても極めて特異な進化を遂げました。
    このことには当時の政治情勢が深く関わっています。

    明治政府の側から考えますと、世界にとって日本は開国したばかりの東洋の小さな三流国にすぎませんでした。
    その上、明治元年からの10年間は、国内では、戊辰戦争・佐賀の乱・西南戦争と、打ち続く士族の反乱に膨大な戦費を費やし、
    莫大な財政赤字を抱えつつ、西欧化・近代化への大きな社会変革を推進していかなければなりませんでした。
    そのためにはどうしても外貨を獲得しなければならない必要性に迫られていたわけです。

    また、視点を変えて美術工芸の側からみると、美術工芸を生業とする人々は明治維新を境に、
    大名や武家、富裕な商人といったそれまでの芸術文化の後援者たちを一挙に失い、大打撃を受けていました。
    つまりは武家階級のみならず商人や工人などの武家階級を主な得意先としていた階層にとっては大リストラ時代ともいうべき時代が到来したのです。

    折しもヨーロッパではいわゆるジャポニズムが流行し始めていました。

    こうした社会情勢の中で、新政府は工芸品の輸出振興政策・産業振興政策を打ち出し、外貨の獲得を目指すとともに、海外での評価を得るためにも、その芸術性の育成をも試みました。

    明治政府はその総力を結集し日本の美術工芸品を集め、初めて参加したのがオーストリアでのウィーン万国博覧会で、
    そこに出品された緻密かつ壮麗な美術工芸品はヨーロッパの人々を驚かせ、その日本観を変えるきっかけとなりました。

    その後、半官半民の貿易会社「起立工商会社」を設立し、そこでの製作品は世界で行われた万博に出品され多くの金賞を獲得し、外貨を稼ぐ主要な輸出品となったのです。
    まぁ、その後、明治政府は富国強兵に舵を切り、起立工商会社も解散して、衰退していくわけですけれど。

    そこで活躍した主な作家、あるいは重要な役割を担った人々、あるいはその作品について、ここからは話を進めていきます。



    梶常吉  (1803〜1883)

    伝梶常吉作 香炉 正明寺蔵 : 口径21.6×高14.2cm

    梶常吉は、尾張 (現在の名古屋市) で、鍛金を生業としており、或る時たまたま古書の中に七宝焼の記事を見つけ、その再現を思い立ちました.
    ところが、その古書にかかれている手法では終に完成する事ができなかったそうです.
    その後、オランダ人のもたらした七宝焼を買い求め、研究を重ねて、最後にはそれを砕いて、銅胎に植線を施しガラス質の釉薬をかけたものであるということを知ったと伝えられています.
    しかし、その基本的な材料を知ったとしても、さらに長い時間と多くの失敗とを積み重ねてでなければ、その製法を明らかにする事は出来なかったようです.
    常吉は、そうして完成した技法を秘密にすることなく、人に伝え広める道を選びました.近代七宝の祖といわれる所以です.
    常吉は愛知県遠島村(現在のあま市)の林庄五郎にその技術を伝え、庄五郎は遠島村に七宝産業を根付かせました。これが七宝町の由来です。



    林小伝治

    四季草花図壺 清水三年坂美術館蔵 :高 40.5cm

    林庄五郎の弟子、林小伝治は遠島村を代表する七宝職人として、釉薬の改良など七宝の発展に努め、尾張七宝の祖といわれています。


    梶佐太郎

    牡丹唐草文花瓶 京都国立博物館蔵 :高 53.2cm

    梶常吉の孫。後に安藤七宝店の工場長を務めました。浜名湖の北にある方広寺というお寺の本堂に、佐太郎の製作した七宝五具足があります。


    塚本貝助とワグネル/アーレンス商会

    梶常吉の七宝技法はこうして、林庄五郎に伝えられ、それからさらに塚本貝助に伝えられました.
    その後、貝助は東京の亀戸に設立されたアーレンス商会の七宝工場の工場長として招かれ、そこでドイツ人科学者ワグネル(写真)と共に七宝釉薬の改良に尽力し、それまでの泥釉(不透明釉)に替わる透明釉を開発し、七宝に鮮明な色彩をあたえました。
    七宝が今日のように光沢のある透明釉薬を使った、華やかなものとなったのは、これから以後の事です。この透明釉は日本の七宝の美しさを飛躍的に高め、国際的にも大変な評価を得ることになりました。
    ワグネルは、科学者として七宝釉薬の改良に努めたのみならず、日本のすぐれた工芸の育成に情熱を注ぎ、彼を顧問としてその指導のもとに、日本はこの後、万国博覧会に参加するようになります.パリ万博のポスター
    ワグネルは、日本の工芸は世界でも非常に優れた美術品である、日本の工芸家はいたずらに量産に走ることなくその特質を伸長させなければならないと考えていたようです。
    国によって雇われた大半の外人教師は任期が終わるとさっさと本国に帰ってしまったのに比べ、ワグネルは結局日本に踏みとどまり、最後まで日本の工芸のため尽力し、日本で没したそうです。こよなく日本を愛した小泉八雲を連想させます。



    並河靖之


    花蝶文花瓶 並河靖之作 東京国立博物館蔵 高18.6cm

    前述したワグネルは、万国博覧会を通じて、日本の七宝を世界に広く紹介しました.日本の七宝はフランスを中心に輸出が盛んになり、隆盛を極めた時代が、明治時代です.
    当時、帝室技芸員の指定を受け、宮内庁御用達となった七宝作家が2人居りました.“二人なみかわ”と称されたのがこの、京都の並河靖之と、後述する東京の涛川惣助です.
    彼は、パリ万国博覧会をはじめ数々の海外博覧会にその作品を出品し、数々の賞を受賞しています.
    靖之は又、七宝制作の傍ら、釉薬の研究を続け、黒色透明釉薬を開発しました.こうして生まれたのが彼の最高傑作といわれている 「四季花鳥図花瓶」 です.

    まだ私が七宝をやり始めた20代の頃、サントリー美術館で、この四季花鳥図花瓶 (口径7.6cm 高36.2cm 宮内庁蔵) と出会いました.
    その、あまりの精緻な美しさと吸い込まれるような黒色に、私も一生の間に一つでいいから、有線を施した立体作品を作ってみたいものだと思ったものです.いわば私にとって、今の仕事の原点と言えるのかもしれません.

    2003年4月1日に“京都市東山区三条通北裏白川筋東入ル”にある、旧並河邸を「並河靖之記念館」として、国登録有形文化財の町家に作品を展示するとともに旧工房や窯場なども公開することになったそうです.一度、暇を見て、行って見たいものだと思っています.
    他にも京都国立近代美術館に収蔵された「桜花に蝶図皿」などがあります。靖之の下絵は中原哲泉が手掛けていました。哲泉のことを靖之は「私の我がものち云ふ画師」と称していたそうです。その哲泉の描いた「桜花と蝶図皿」の下絵がこちらです。


    涛川惣助

    小禽図盆 涛川惣助 東京藝術大学蔵 16.9×22.7cm

    前述の並河靖之と共に「二人なみかわ」と称されたもう一方の雄が涛川惣助です。
    涛川惣助は、明治10年にアーレンス商会の七宝工場を譲り受け、塚本貝助を招いて七宝の製作に着手しました。
    涛川惣助は、無線七宝の考案者として知られています。涛川惣助の考案した無線七宝の技法とは、焼成の最終段階で植線を取り除いてから焼成するという技法で、それにより、線の両側にあった釉薬が混ざり合い、日本画的な柔らかな「ぼかし」の表現を可能にするというものでした。
    涛川惣助の下絵は渡辺省亭が手掛けています。「菊紋蛍図瓶」 清水三年坂美術館蔵 高36cm
    赤坂・迎賓館の「花鳥の間」には涛川惣助の製作による32枚の額がその壁面を飾っています。手前の柄は有線七宝、遠景には無線七宝を用いて、極めて日本画的な表現を実現させています。迎賓館内部は照明が暗いし、なかなか美術館での鑑賞のようにはいきませんので、ご覧になられる場合はオペラグラスを持っていかれたほうがいいと思います。


    尾張七宝と京七宝

    明治5年に尾張から桃井英升が京都に移り住んで七宝製造を始めたのが京七宝の始まりと言われています。
    当時は、一般的に作品に銘を入れることはしません。ほとんどが無銘でした。銘のわかっている作家としては錦雲軒稲葉・稲葉七穂ほか数名にすぎません。
    京七宝は尾張のそれとは違って、高20cm前後の小さな作品が多く、高級品志向が強かったと思われます。技術的にも新しい技法を積極的に取り入れた尾張七宝に比べ、有線七宝の技術を進化させようという傾向がみられます。
    2005年だったと思いますが、稲葉七穂が明治22年に創業した稲葉七宝店が廃業しました。それを最後に京七宝を伝える業者は姿を消しました。
    一方、尾張七宝は、当初より、安価な製品から高級品まで、また大きさもごく小さなものから1mを超える大型のものまで幅広く制作していました。 技法においても有線・無線・省胎・盛り上げなど幅広い技法をいち早く取り入れています。
    尾張七宝の安藤七宝店(明治20年設立)は、梶常吉の孫・梶佐太郎を工場長に招き、明治26年に宮内庁御用達の指定を受け今に続いています。

    錦雲軒稲葉・稲葉七穂

    蝶に四季花図七宝花瓶 高16.5cm 稲葉七穂 清水三年坂美術館蔵

    明治22年に錦雲軒を創業し並河と並んで京都を代表する七宝会社となりました。蝶図七宝花瓶
    無銘ではありますが錦雲軒製だと思われている四季花鳥図七宝三脚香炉もあります。


    安藤重兵衛

    竹に雀図七宝花瓶(一対)高25cm 清水三年坂美術館蔵 

    明治13年に安藤七宝店を創業しました。(その後安藤七宝店は銀座にも出店し、現在に至っています。銀座のお店には私もアクセサリーを委託して、お世話になっています。)
    重兵衛は内外の博覧会にその作品を出品し、高い評価を得て数々の賞を受賞しました。
    この作品は、箱書きに、皇室よりご下賜されたと記されてあるそうです。
    霜野(しもつけ)小禽図七宝花瓶には盛り上げ七宝の技法が使われています。盛り上げ七宝とは、植線を施した面よりも釉薬を盛り上げて立体感を付ける技法です。朱色の葉の部分に使われています。


    川出柴太郎

    竹林図七宝四方耳付き手炙り 高20cm 清水三年坂美術館蔵

    川出柴太郎は、安藤七宝店の工場長としても活躍した名工です。 工場長という立場もあってのことと思われますがその作品数は極めて少ないのですが、非常に繊細な作風で知られています。


    富木庄兵衛

    月叢雲図硯箱 20.6×19.1cm 安藤七宝店蔵

    蓋の表には無線七宝で月にかかる叢雲が描かれており、硯箱内部には有線七宝で一面に波と千鳥、収められた筆の軸にも波模様が植線されています。
    安藤七宝店の所蔵品です。一度安藤七宝店で間近に見せていただいたことがありますが、その精緻さには息を呑むような思いでした。
    ただでさえ、箱ものを変形させずに焼き上げるのは至難の業です… まぁ、私にとっては神業としか思えません。


    粂野締太郎

    群蝶文七宝小箱 7×9×高3.7cm 清水三年坂美術館蔵

    粂野締太郎については、詳しいことはわかっていません。しかし、その細かさは、右に出る者はいないだろうと思われます。この小さな箱の中におそらく千匹以上の蝶が舞っています。
    じっと見ていると何やら眩暈がしそうです。
    名古屋市栄の安藤七宝店には昔の蔵を利用した美術館が併設されており、そこでおそらく粂野の作品だと思われる群蝶図の作品を見たことがあります。
    よく見えるようにその前にはルーペが備え付けてありましたっけ。その蔵の美術館はどなたでも見学ができます。安藤七宝店は昔の七宝をたくさん所蔵していらっしゃいますから、時々展示品の入れ替えが行われているようです。
    名古屋に行く機会があったら、是非見てください。


    最後に

    ここまで駆け足で日本の七宝の歴史を辿ってまいりました。他にもまだご紹介したい作品は山ほどございます。

    どういうわけか、日本では美術品としての七宝はほとんど認知されておりません。
    以前、岐阜県の関市にある旅館に、明治期の貿易商の別荘だったものを買い取り移築した建物がありました。その旅館の泊り客には見せてくださるというので出かけましたところ、二階に上る階段の手すりはその柱まですべて七宝で出来ており、引手やら飾り金具にも七宝が多用されていて、それは見事なものでした。 ところが、数年前に、その旅館が廃業し、あの別荘の建物はすべて重機で破壊されたということを聞いたのです。その、引きちぎられた柱の一部がオークションに出ていたと。
    言葉もありませんでした。知識がないということはこういうことなのか、と。七宝の価値が認知されていないがための悲劇だと思いました。

    何故、ここまで知られていないのか…明治期以前のものは「泥七宝」で、昭和30年代からのアクセサリーで七宝を知っているという方たちから見ると全く別物。見てもそれとは分からないのかもしれません。
    もう30年ほどの前のことになりますが、金沢へ出かけた折、江戸村という金沢市立の歴史博物館へ行きました。その時窓口で「何か七宝に関連したものがございますか?」と尋ねたところ、「ありません。」というまことにそっけない返事が返ってきて、でもまぁ、せっかく来たわけだしと入場したところ、あるじゃないの!
      直径1mを超える大きさの香炉までありましたっけ。要するに知られていないだけなんだわ、と、なんだか悲しくなったのを思い出します。

    また、明治以降の作品は、あまりに高額で、手に入れることのできる方々は皇室か宮内庁位のものであり、ほとんどが輸出用として海外に流出していますから、一般的に目にする機会がほとんどなかったからだと思われます。

    今は、幕末から明治にかけての「超絶技巧」が見直されつつある昨今の流れにあって、里帰り品がオークションなどで収集されつつあります。そのおかげで、先人たちの血のにじむような努力の結晶たる作品を直接目にする機会も増え始めています。
    かといって、やはり現代の工芸としての七宝は、その制作にあまりに手間がかかりすぎて要するに現代のこのスピードについていけない、言わば工芸の絶滅危惧種みたいなものにほかならず、かといって手を抜けるものでもなく、私などは「道楽」と割り切って年に1作のみに集中して作り続けているわけです。

    でも、まぁ、こうやって改めて先人たちの作品に触れてみると、まぁ、私って何をやっているんだろうと忸怩たる思いがいたしますけれど…

    それはともかく、これら先人たちの手になる作品をご覧になって、七宝という芸術の1分野があるのだということを認識していただくために、このページがその一助となってくれれば、それは私にとって望外の喜びです。


    2019/01/05