思い出すまま、順不同ですけど、私を巡るいくつかの事柄を書いて行って見るつもりです.
たいしたことは、何もないんですけど・・・
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私には、私が生まれる前に亡くなった叔母がいたのだそうです.母の妹で、名前を“ゆまこ”と言いました.
「ゆまこが死んだときに、余りの悲しさから、月のものが止まってしまったと思ったら、そうではなくておまえが出来ていたのよ.」と、母は何度も笑いながら私に話しました.だからきっと、おまえはゆまこの生まれ変わりなのだろう、と・・・
それは、多分母の贖罪の言葉だったのだろうと、最近思い始めました.
不思議なもので、生きているうちには何となくやり過ごして気にも留めなかった母の言葉が、もう亡くなって今年は十七回忌をしようというころになって、突然にその裏に込められていた思いと共に蘇ってくるなんて・・・
叔母は結核で亡くなりました.
第二次大戦直後の、たぶん昭和23年の春か、初夏のころだったのではないでしょうか.
その少し前に、母は医者だった父から、「ストレプトマイシン」の話を聞かされたそうです.結核の治療薬として.
開発されたばかりで、とても高価なものだったそうです.それに、どれほどの効果があるのかもまだ分からない状態だったらしい.
「使ってみるか?」と、父に聞かれたときに、母は断ったらしいのです.確実に効くと分かっているのならばなんとしてでも手に入れたものを、ゆまこの家も経済的に余裕などあるはずもなく、ウチにも、とてもそんな余裕はなかったからね・・・あの薬があれほど劇的に効くなんて思わなかった・・・と、母は言葉を濁しましたっけ.あとにも先にも、ただ一度っきりの話ですけど.
昔の田舎のことですから、母の兄弟関係も複雑でした.夫婦がいて、子供が出来て父親が早くに亡くなり、父親の弟が跡に直った.それが私の祖父にあたる人です.で、その間に母とゆまこ叔母が生まれ、そして、祖母がなくなって、祖父は後妻をもらった.そこに出来たのが母の弟たちです.
つまり、ゆまこ叔母と母とは、両親を同じくする特別な姉妹だった.
ゆまこ叔母を見殺しにしてしまったと、そのことが、母の生涯の負い目になっていたのでしょう.だから、母は私のことをゆまこ叔母の生まれ変わりだと思いたかったのかもしれません.
「あれは、頭のいい、優しい、才気あふれる子だった.あんな時代じゃなくて今の時代に生まれてきていたら、さぞやいろんなことが出来ただろう.それだけのものをもって生まれてきた子だったから.」
ゆまこ叔母の話になるたびに、母はよくそう話ましたっけ.その思いがあったから、母はありったけ自由に私を育ててくれたのかもしれません.助かるべき妹を見殺しにしてしまったと言う苦い思いが、たぶん母の中にはずっと長いこと居座りつづけていたのでしょう.
私が年を重ねるごとに、母は、「ゆまこに似てきた・・・」と呟くように言いましたっけ.
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小学生の頃、ひと夏を父の故郷の小さな漁村で過ごしたことがあった.
昭和30年代になってやっと鉄道が開通したような、熊野灘に面した小さな漁村である.
父の書斎には誰が描いたのか、その漁村の風景画がかかっていた.随分古びた水彩画だったが、私の大好きだったその絵に描かれた風景は少しも変わっていなかった.
そんな小さな漁村だったから、もうもうと煙を吐きながらトンネルをくぐってくる列車に乗ってやってきたこの私も「都会の子」に見えたのだろう.同じくらいの年頃の子供たちはみんな、はじめの頃は遠巻きにして上目遣いに私を見ているだけだったが、それはそれ、子供のことだからすぐに打ち解け、私が夏休みの宿題に貝の収集をしているのを知ると、男の子たちは競うように私を海に誘い、すもぐりしては、貝を取ってきてくれたし、女の子たちは浜辺で拾った貝殻を物陰でこっそり手渡してくれた.
女の子たちがくれたのは、ほのかなピンク色の薄い薄い桜貝や、小さな紫色の朝顔貝.
男の子たちが泡と共に海の底から浮かび上がってきて、高々と突き出すように挙げた手の中に握りしめられた大きなほら貝.
もっと小さな男の子たちが両手にいっぱいの芋貝を持ってきてくれたり・・・
みんな、その時ばかりは少し得意げに輝く顔をしていた.
取ったばかりの貝は、海岸べりの道端で七輪に古ぼけた鍋をかけて煮て、食べられる貝の中身は子供たちが食べて私はその貝殻を貰って帰った.
或る日、誘われるままに4〜5人の子供たちと共に、小さな魚市場の側の岸壁で釣りをした.
釣り竿は、山から取ってきた細い竹.その先にテグスを結びつけて作った簡単なものだ.えさは魚市場の片隅で拾った魚.かまぼこ板のような木切れの上に乗せてポケットから取り出した「肥後の守」で器用にさばいて釣り針につける.
あの頃、「肥後の守」と言うナイフを私たちは良く使った.鉛筆もそれで削っていたし、木の枝を削って木刀を作ったりもしたものだ.
切れが悪くなると砥石で研いだりもしていたように記憶している.何度も砥石で研いでいると肥後の守の刃はだんだんチビてきて、それでも大事に使っていた.
子供たちにとっては毎日使う大切な道具の筆頭として真鍮や木のさやに収まって、たいていの男の子のポケットの中に入っていた.
私たちは釣りの用意を整えると並んで岸壁に腰掛けて釣り糸を垂れる.覗き込むと青緑色をした水のなかにさまざまな小魚が群れていた.
ゆったりと泳ぎ回る魚もいれば、静止してほとんど動かない魚、直線的にすばやく泳ぎ回る魚、魚の動きも種類によって随分違った.
一番沢山いたのは、何という名前だろう、まるでモルフォ蝶のようなメタリックな青さで輝きながら素早く泳ぎ回る小さな魚たちだった.
その魚たちは、釣り針についたエサを器用に盗む.かかった! と思って竿をあげるとその動きよりもずっと早く逃げていく.
「ね、ね、あの青い魚を釣りたいの! あの青いのを釣ってよ.」と叫ぶ私を振り返って、男の子たちは怪訝な顔で答える.
「あんなん、釣ってもしょうがないやろ.」
「でも、あんなに綺麗なんだもの.」
「綺麗って・・・食えなきゃ釣ってもしょうがないやろ?」
どうも、その魚は食べられない魚らしいのだ.それでも私はどうしてもその青さが欲しかった.
町の子ってアホやなぁ、という表情をありありと顔に刻みながら、それでも優しい漁村の子供たちはその青い魚を釣ろうと躍起になってくれた.
「釣ろうと思うとなかなか釣れんもんやな、あの魚.エサを泥棒するんが上手い・・・」
確かにその魚は釣れなかった.小あじや他の魚は良く釣れたが、その魚だけは決して釣り針にかかろうとはしなかった.
釣り針にかけられたエサを、真正面からは取りには来ない.横からやってきて少しずつ針をよけるように食べ散らしていく.
「コマセを撒いたらええかもしれんなァ.」
と、一人の男の子が、捌いた魚の残りを肥後の守で素早く細かく刻んで、一握り海に撒いた.
一挙にあたりに散らばっていた魚たちが群れ寄ってきた.あの青い魚の群れも、小あじも他の魚たちも、塊になって押し寄せてきた.
私たちはその中へ一斉に釣り糸を垂らした.
「おぉ〜 かかった!!」
一人の男の子が得意げに叫びながら拳を突き上げた.
「こんなもん、釣ろうと思ったことはねぇから、これを釣ったのははじめてじゃ!」
釣り針からはずして道端に置いたその魚は、私たちが輪になって覗き込んでいるとしばらく跳ねていたがすぐに動かなくなった.
「本当にこれがあの青い魚なの?」
それは、汚い黒い魚だった.
「おぅ、そうじゃ.あの青い魚じゃ.間違いない.」
「だって、黒いじゃない・・・青くないじゃない・・・ちっとも綺麗じゃない.」
「間違いない、オレも見ておったからな.海から上げるまでは青かったぞ.上がったとたんに黒くなってしまったんじゃ.」
釣り上げた子の隣に腰掛けていた、ちょっと年長の男の子が言葉を添えた.
「海の中にいるときだけ青いんじゃろ.外に出たらオシマイなんじゃ.」
「死ぬと黒くなるんじゃろうか?」
「アホやなぁ、跳ねてる時だってもう黒かったじゃろ? きっと海で泳いでいなけりゃ青くなれんのじゃ.」
私たちは口々に海から上がると黒くなってしまう魚について取り沙汰した.
足元には、動かなくなって青い光を失った汚い黒い魚が横たわっていた.
私はその魚の尻尾をつまみあげて、岸壁から海へ落とした.
ポチャンという寂しげな音と共に海に帰った黒い魚は見る見る輝くあの青さを取り戻してゆらゆらといったん海に沈み、それから再び浮かび上がって、水面に汚い黒い腹を浮かべた.
ごめんね、と私は言葉にならない言葉を呟いた.
釣り上げちゃってごめんね・・・他の世界に連れ出しちゃってごめん・・・別な世界に無理やり連れて来ちゃったからあなたは汚くなっちゃったんだね・・・
私たちは岸壁に並んで、水面に浮かんだ汚い魚の腹をいつまでも見つめ続けていた.
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高校生になったばかりの頃、現代国語の授業で、正岡子規の短歌について I 先生の授業を受けました.
“くれなゐの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに 春雨の降る”という短歌です.
意味だけを捉えれば、「薔薇の、赤い新芽が二尺ほど伸びて、その柔らかな新芽の針に春の雨が降り続いている.」という情景歌なのですが・・・
正岡子規を捕らえた「脊椎カリエス」という死病.寝床に横たわったまま動くこともままならない日常では、寝床から見える窓の外の風景だけが世界の全てで、その窓から見える、庭の薔薇.
二尺伸びたる、と、その長さにこだわったのは、恐らく、伸びる気配がはっきりと見えるほどまでに毎日毎日見つめつづけていたからなのではないか.
その伸び行くさまは、命そのものだ.その芽に、春の雨が降り注いでいる.
春の雨には、独特の匂いがある.命の匂いといってもいいような、何やら生臭くさえ思える匂いを孕んでいる.
むせ返るような夏のあおくさい匂いとも違う、命の膨らむ匂い.
その雨に打たれて、薔薇の新芽はぐんぐん伸びる.
その伸びる速さ・・・それは、あたかも自分の命の尽きるまでの速さに分かちがたく対応しているようだ・・・
伸びるさまを見つめつづけることは、自分の死への残された時間を見つめつづけることに他ならない.
薔薇の芽の伸びるさまをみるのは、これが最後だろう・・・
そんなことを先生は話されたように覚えています.
その時、私は、はじめて、“文学における行間”というものを強く意識しました.
文学作品とは、書かれた言葉以外の行間に、斯くも大きな思いが閉じこめられているものなのか・・・と.
想像力を目いっぱい広げて、行間を受け取らなければいけない、と・・・
その行間を読み解くことこそ、大切なのだ.
行間を読み取ることは、パンドラの箱を開けるような怖さがある・・・なぜならば、それは自分自身をを覗き込むことにも通じることだから.
でも、なにやら、本当の意味での「大人の世界」を垣間見たような感動を覚えたものです.
大人はこうやって、自分の思いを行間に閉じ込める・・・
I 先生の授業は、いつもそんな風でした.行と行の間に閉じ込めて語ることのない作家の思いを生きいきと解き明かしてくださいました.
それだけじゃありません.全校集会などのある時に、いつもエスケープを試みる不良の私は、よく国語研究室に逃げ込んでは、I 先生のデスクの下にかくまっていただいたり〜〜
見回りの先生をやり過ごしたあとで、小説の話をしながらストーブで焼いた食パンにイチゴジャムなんかを塗ったものをご馳走になったりしていました.
小説やらエッセーやらの真似事を書き散らしては添削していただいたりもしていましたしね、随分ご迷惑もおかけしたし、お世話になりっぱなしでした!!! 今になってみると、お礼の申し上げようもないくらいです!
高校3年になった時に、先生の転勤で・・・あの時は一晩中泣き明かしたものです.「恋」していたわけじゃなかったけど、慕う激しさだけは「恋」に似ていたのかもしれませんね〜(^^ゞ
あの授業は、明らかに私にとっての、「文学狂い」の原点だったのだろうと、今では思っています.
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七宝を始めて、随分と長い時間が経ちました.
ほんの遊び心で始めたのがはたちのころですから、かれこれ三十数年.お教室を始めたのは七夕豪雨の直後でした.これはお教室として借りた家の畳を入れることになっていた畳屋さんが、増水した巴川のせいで水没してしまったこともあってよく覚えています.
以来、まるでバカのひとつ覚えのように七宝に関わりつづけてきました.そしてそれを通して多くの人たちと関わり合い、多くの人たちに支えられてきたわけで、そのことは私の本当にかけがえのない財産.
今、私の主宰している七宝教室には「釉子會」という名がついています.よく柚子(ユズ)と間違えられたり、何と読むのですかと訊ねられたりします.
読みは「ゆうしかい」です.釉は「うわぐすり」 つまり七宝のえのぐの意味です.
雲白く 遊子悲しむ、と、藤村の詩の中に出てくる遊子、つまり旅人にもつながっています.
人生という長い旅を歩み続けるには、1人は無理.誰かが、何かが必要.その誰か、そして何かに向かって心を開こう、そう言った思いも含まれています.
私にとって七宝を愛するということは、心の世界を広げて自分を愛すること.他人を愛すること.壁に突き当たってもどこか悠然と自己を突き放して見つめ続けられること.お互いに自分の寸法で素直に友と対峙できること.
つまり、ゆう(釉)は、遊にも、悠にも、そして友・YOUにも通じる私の密かな希いでもあるわけです.
いわば私にとっての、世界と触れ合うためのアラジンの魔法のランプ.呪文を唱えながらそっとこすると、たくさんの優しい思いが現れるのです.
そんなに長く七宝と関わりつづけて生きてきたにもかかわらず、個展をやったのは、5年前に只一度だけなのです.
それも、画廊じゃなくて、静岡にある地方銀行、静岡銀行の「しずぎん常設ギャラリー」
たまたま、そこをプロデュースしている人に「逃げてばかりいないで、やるべきですよ!」と強く勧められたこともあり、また、販売しないで、展示だけ、ということもあってこわごわとやってみたのです.
今もそうだけど、年に一、二作、公募展のためだけに制作するというのが当初からの私の活動のスタイルです.
ですから、私の作品の隣には、いつも誰か別な人の作品が並んでいるわけで、5年前のその個展のときにはじめて、ガラスケースの中は、全部私の作品!という、私にとっては全くはじめての、驚くべき経験をいたしました.
モノを創るということ.何も描いていない真っ白なスケッチブックに鉛筆で線を描いていくこと.それが何時の間にか花器や合子、水指の形になり、その中に花々を描き色彩を施し・・・でも、常に、「これではない何か別なもの」の可能性は無限に存在しているわけで、その中からたった一つを選び取って制作することの恐ろしさ、後ろめたさ.
そして出来上がった作品.技術的な未熟さは勿論のこと、その裏側にはやはり、選び取らなかった「これではない何か別なもの」の影がちらついている.その不安と後ろめたさの中で、まァ、これが私の実寸、と、あきらめて再び次は? と移り変わってきたわけで、確信を持った作品なんか一つもないと、それが現実.
ですから、そんな作品たちを並べるなんて、私にとっては本当に恐ろしいことだったのです.そして、陳列してみて・・・
あ、私のやってきたことはこれだったのかと、それはそれで一つのものを追いかけてきたのだな、これはこれで、自分のしてきたこと、少しだけど許せるな・・・と、ちょっとだけほっとしたような気がいたしました.
青虫が蛹になり、蛹が蝶になってゆくように、いつも一皮脱ぎ捨てたい衝動に駆られつづけている私なのですが、その時は、これで心置きなく一皮脱ぎ捨てられるかな、と思ったものです.
脱ぎ捨てること、変身すること、何もかもがおっとりと、無理なく自然にゆっくりと.
これが、私の無精者たる所以なのでしょう.仮にそのことをあの世まで持ち越してしまったとしても、それはそれで、仕方ありませんね.
そんなことを、また作品を作る季節が巡ってきて、ふと思い出しました.
さて、これから、二ヶ月ほどの「物狂い」です・・・
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人間関係において、急に気持ちが痩せてしまうことがあります.
そういう時って、本当はもう何年もかけて少しずつ気持ちが痩せ続けてきているのにそれに目をつぶって過ごしてきたということなのでしょう.
些細なことがこのたびの齟齬の原因だとしても、その背景の中には、実に大きな齟齬の長い歴史が隠されているわけで、こりゃ、もうどうしようもない.
といいながら、その実、もしかしたら私はこの瞬間を待ち構えていたのかもしれないとも思ったりしたのであり・・・
やれやれ、20年来の友人関係で、いったい何を築いてきたのかしらね.私自身も含めて、なんと情けない話でしょう.
築き上げるのには時間が必要なように、壊すためにも時間が必要だったのかもしれません.
でも、努力を怠ってきたことも事実です.若いころと違って、口に出しても無駄なこともあるということが分かってしまうのですよね.
奥深い根の部分に、相容れない価値観の相違があることはうすうす感じていたわけで、その価値観の相違に気づきながらも、面倒くさくてそのことには触れずに今まで来てしまった私が悪いのか・・・
どうも、私には、本来とてつもなく気が強いくせに、思ったことを飲み込んで腹に収めて語らずに済ませる性癖があるようで・・・あなたよりずっと不正直なのでしょうね.
まぁ、仕方のないこともあります.お互いのためにも冷静にその齟齬は認める必要があるようです.
あなたが変わったのでも、私が変わったのでもない.もともと、お互いがこうだった、と、ただそれだけのことだったのかもしれません.
いろんな意味で、お互いが気持ちの上で無理をしなくなったから相容れなくなったと、それだけのことのような気もいたします.
ま、お互い、それぞれ元気に仕事がんばりましょうね.
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6月か7月だったか、そのころからやってくるようになった野良猫がいます.うちの猫たちの食べ残しのエサを盗みにやってきているのです.何しろこの家の玄関には猫用の出口がついていて、一年中24時間門限無しに開いているのですから、ウチの猫たちの出入りも自由ならば野良猫たちの出入りも自由で・・・
その野良猫、(キジトラで、名前を「トラ丸」と言います.と言っても、勝手に私がつけた名前ですけど.)極端に痩せていて、まぁ、見掛けの悪い猫です.
目は三白眼・・・どうもよく見えないみたいなのです.道を歩いているときの様子が、昔飼っていたクマ子と言う目の見えない猫とそっくりなの.時々蔦の絡まっているブロックの仕切りにぶつかるように立ち止まり、ふと考える素振りを見せては方向転換をして走ってゆく・・・三白眼はそのせいだろうか・・・瞳孔が極端に上に寄っているので、何やら恐ろしげな奇妙な顔をしている.
はじめのうちは不細工な汚いねこだなぁとだけ思っていたのだけれど、何やら哀れに感じてきて盗み食いにきても追わないようにしていました.だってあの器量じゃ、誰にもエサはもらえそうにないもの.それに大きさから言っても子供から大人へとなりかけくらいだ.多分まだ生後1年とは経っていないだろう.まだ子猫だ.
最初のうちはビクビクしながらエサを盗み、気配を感じると一目散に逃げていったのですが、その都度「トラ丸、良いわよ、ゆっくり食べてお行き.」と声をかけつつエサをやっていたら、最近はやっと慣れて、来るとか細い声で私を呼ぶようになりました.エサの催促です.
ウチの猫たちの残り物をかき集めてやったり、残り物がないと缶詰を開けてやったりしていますが、その間きちんと座って、小首をかしげて待っているようになりました.
食べている間中、私もその傍らにしゃがみこんで見ていたり、時々背中をなでてやったりするのですがあまり逃げなくもなりました.やはり子猫のせいでしょう.まだ警戒心が薄い・・・
寄る辺のない子だろうな、多分あまり長生きも出来ないだろうな、と思いつつ、まぁ、出会ったのがご縁.お互いが生きている間中、ウチでご飯だけでも食べなさいよ.病気したときに病院へ連れて行けるくらいには私に慣れておきなさいネ、って言い聞かせているんだけど・・・飼ってやっても良いんだけど猫だって20年生きることもあるし、今から20年じゃぁ私のほうが先に死んじゃう事だってありうることだし、ノラの通い猫くらいにしておく方がお互いのためかもね.
キジトラ猫には格別の思い入れがあるのです.子供のころに買っていた「マル」と言う猫がキジトラでしたから.
まことに気の強いメス猫でした.
お隣にシェパードがいて、お隣は夫婦共稼ぎでしたから、日中は誰もいない.だから、するりと首輪から首を抜いては私と遊びに一目散にウチにやってきていたの.名前はレミだったかしら?
ある日、レミがそんな風にウチに駆け込んできた時に、折悪しく、縁側に腰をかけていた私の傍らでマルが昼寝をしていたの.
レミが尻尾を振りながら駆け込んできた時に、マルはものも言わずすっと起き直ると次の瞬間レミに飛び掛っていって鼻面を思い切り引っかいて隣の屋根に逃げた・・・レミはキャンキャンと哀れな声を上げて逃げ帰って行ったっけ・・・以来、レミはやってきてもマルを見るとそのまま家に逃げ帰るようになった・・・
そんな風に気の強い猫でしたから、サカリの時期はモテて随分いろんなオス猫たちが、ウチの庭先で決闘していましたっけ.最後に残ったのは隣の町内の薪屋さんの赤トラと、反対側の町内の角のうちの片目のつぶれた黒猫.ウチの小さな庭から隣の家の屋根まで使った壮絶な決闘の末に半分耳が切れてそれでも勝った黒猫がマルに向かってニャァ〜〜と鳴くと、それまでその決闘を縁側でゆったりと寝そべって眺めていたマルは、おもむろにゆっくり起き上がってあくびをしてから、大きく伸びをして、ひらりと黒猫についていきました.
そしてそれからまもなく、はじめて子供を産んだ時のこと.押入れの中に置いたダンボール箱の中で生まれた子猫は6匹.私は気がかりで、母からは猫が神経質になるから覗くんじゃないと言われていたのだけれど、しょっちゅう押入れを覗き込んでいたのです.
どういうわけか覗くたびに子猫は一匹ずつ死んでいました.しまいには子猫は2匹を残すだけになってしまって・・・
或る時また、そっと覗いてみたら、なんとマルは、真っ黒な子猫を一匹、大事そうに胸に抱きかかえて、もう一匹をお尻でつぶしているところだった・・・
驚きの余り泣きながら母に報告すると、だから、覗くのは止めなさいって言ったのに、と言われたの.結局一匹だけ残して後は全部マルが殺してしまったわけで、多分しきりに私が覗くので安心できなかったのだと思うのね.安心して育てられるのは一匹だけだと思ったのかしら?
残った黒猫はまだ乳離れしたばかりの子猫のうちに、リヤカーで引き売りに来る農家のおばさんに貰われて行ったのだけど、その子猫をいつまでも探し回るマルの姿が可哀想でなりませんでした.
その後キジトラを飼った事もあるのだけれど、どういうわけかキジトラは私の元には居着かないのです.交通事故で死んだり行方不明になったり.たいてい生後一年でご縁が切れる.きっと私はキジトラにはご縁がないのかもしれないと密かに思ったりしたわけで、キジトラは避けるようにしていたのですが・・・さて、トラ丸はどうなることやら・・・最近少し毛艶もよくなってきたようです.
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このところ立て続けに二人の知り合いから突然の音信がきた.
二人とも、数ヶ月に一回、或いは数年に一回という感じで、すっかり忘れた頃に不意に電話をかけてきて、一方的に自分の困りごとだったり悩み事だったりを延々と私に話す.それからまた始まる長い空白・・・それが信じられないことに、もう何十年も続いている.
どういうわけか彼女たちは揃いも揃って私のことを極めて親しい友人だと思い込んでいるらしい.
数年に一度くらいだと、彼女たちを取り巻く現在の状況は何もわからないし、従って言っていることも細部は何も分からない.極めて内輪のあまり人には聞かせたくないようなことまで話し続けるのだが、それが本当のことなのか妄想なのかすら見当もつかない.それなのに、彼女たちは、いかにも私には彼女たちの状況が全て把握できていて当然のように、話し続ける.
だから、私もいい加減面倒になる.面倒になってつっけんどんに「どうしてそんなばかばかしいことにこだわらなくてはならないのよ?」とか、「そのことはあなたの力には余ることでしょう? 止めた方が良いんじゃない?」などと、電話を早く終わりたいばかりにはっきりとモノを言ってしまう.(何しろ延々と1時間以上話しつづけるのだから・・・)
そうすると、二人とも何故か「そうやってはっきりとモノを言ってくれるのはあなただけよ.」などと妙に感激したりするのだ.
私もずるいから、「そうじゃなくて面倒だなと思ってるだけよ.」などとは決して言わない・・・全くのところ、それは私のずるさとしか言いようもないのだろう.どこか後ろめたさを感じてしまったりもするくらいだ.
彼女たちの共通点は、いつもかなり深刻な様子でいろいろと話したり相談したりするのだが、その結果がどうなったと知らせてきたことは一度もない.いつも話は一方通行の尻切れトンボで終わる.はじめのうちはこちらも心配して、一体どうなったのだろうとしばらく悩んだりしてもいたのだが、それも次第に慣れてきて、今ではその場限りで綺麗さっぱりと終わらせることにしているのだが、内容によってはやはり何日か気になり続けることもあるのだ.
彼女たちは、まるで屑篭の中にゴミを棄てるように、私の中に悩みを棄て去るのかもしれない・・・
どうして、私に、なのだろう? 一度はっきり聞いてみたい気がする・・・遠い過去にそれほど親しく友情を培った記憶は、私には全くないのだもの・・・でも、多分私はそのことをはっきりと聞く事はせずに、何年に一度か、つっけんどんにモノを言い続けるのだろう・・・
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あれはもう40年も前のことだ。
高校からの帰り道に、誘われて初めてボーイフレンドの家に立ち寄った日のこと。
2階にある彼の部屋で私たちは向かい合って座布団に正座し、語りあっていた。何の話だったのか? 覚えてはいないのだけれど、あの頃17歳の私たちは「実存主義」に夢中だった。だから多分カミュやらサルトルの話でもしていたのだろう。あの頃の私の一番の愛読書はカミュの「異邦人」だった。
「開けますよ。」と声が聞こえ、そっと開けられた襖。廊下に膝をついて少し背中の曲がった小さなおばあちゃまが微笑みながら座っていた。手にしたお盆を、畳の上を滑らすように中に入れて
「お腹がすいているでしょう? こんなものしかないけれど召し上がれ。何しろあなた、もう私は歳をとってしまってガスの火を消し忘れたりするものだから、火を使ってはいけないといわれていましてね。こんなものしか作れませんのよ。」
お盆の上には紅茶の入ったカップが二つ、そしてプレート、その上にはトーストが2枚乗っていた。
「あ、ありがとう、おばあちゃん。もういいよ。」
と彼が答えると、おばあちゃんはにっこりと笑いながらそっと襖を閉めかけた。
「ありがとうございます。ご馳走になります。」
「いえいえ、どうぞ、ごゆっくりね。」と、襖越しに声が聞こえた。
襖の向こうでそろそろと立ち上がる気配がした。ゆっくりとした足音が聞こえ、その足音は一段ずつに両足を揃えながら階段を下って行くようだった。
「あ、すっかり冷めちゃったトーストだね。」と、彼が言った。
確かにトーストは冷め切って、塗られたマーガリンが白かった。白いマーガリンは几帳面にパンの隅から隅まで塗られていた。
「でもとても美味しいわよ。」
あの、一段ずつに足を揃える、ゆっくりと階段を下りていく少しおぼつかない足音。
きっとトースターでパンを焼き、ポットから紅茶に湯を差しているうちにパンはすっかり冷めてしまったに違いない。
冷めてしまったパンにゆっくりと丁寧にマーガリンを塗っている、少し曲がった小さな背中が見えるような気がした。その時何やら急に鼻の奥がツーンとした。
「きっと、とてもとても優しいおばあちゃまなのね。」
「うん、あの人は僕の母親がわりなんだ。本当の母親が父親の役目を果たしているのだからね。」
彼の父親は随分前に他界し、母親は教師をしていた。だから、日常母親のする全てのことは彼の祖母の仕事になっていたわけだ。
その後私たちの付き合いは奇妙な形ながら10年以上も続き、結局のところ疎遠になってしまったのだが、どういうわけかあの時のトーストはそれからも時々鮮明に思い出された。それと共に、お元気でいらっしゃるのだろうか、と・・・
あのトーストに隅々まで丁寧に塗られていた白いマーガリンは、紛れもなく、彼への愛の一つの形だったのだと思う。
今度彼に出会ったら、おばあちゃまはお幾つまでご存命だったのか、聞いてみたいと思っている。ご命日はいつなのかも聞いてみたいと思っている。
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